コラム
がん患者と共に

先日、友人である宇都宮市議の茂木ゆかりさんに誘われて、「リレー・フォー・ライフ・ジャパン2025とちぎ」に行ってきました。茂木市議から大会名を聞いた時は「??」という感じで、「夜、壬生の陸上競技場で夜通し歩いていますから、いっしょに歩きに来てください」という言葉だけが頭に残り、深くも考えず「2時間くらいなら付き合うよ」と軽く承諾しました。競技場へ着いたのが20時半くらいで、そこで説明を受けて初めて大会の目的と意味を知った次第です。
「1985年、一人の医師がトラックを24時間走り続け、アメリカ対がん協会への寄付を募りました。 「がん患者は24時間、がんと向き合っている」という想いを共有し支援するためでした。ともに歩き、 語らうことで生きる勇気と希望を生み出したいというこの活動を代表するイベントは、2024年現在において、世界36か国で活動、約1,800か所で開催され、年間寄付は約146億円にのぼります」(リレー・フォー・ライフHPより引用)
思えば、自分も7年前に父親を癌で亡くしています。79歳でした。まず黄疸が出て、かかりつけの医師からすぐに検査するよう言われ、結果はすい臓癌のステージ4で余命は半年と告知されました。それは本人と家族にとってまさに青天霹靂で、ある程度の知識があればすい臓癌が何を意味するか理解できます。医師に今後の治療をどうするかを聞かれ、私たちは「何もしない」ことを選択しました。抗がん剤や放射線治療をせずに自宅で過ごすことです。しかし本人は「奇跡が起きることもある」と考えていたのか、意外にも楽観的でした。たぶん、亡くなる数時間前までその希望は本人の中にあったと思います。
癌が発覚してからも特に痩せもせず痛みもなく食欲も旺盛で「もしかしたら誤診か?」と周囲が思うほど、元気そのものでした。 「また行けるようになった時のために」と、趣味の釣り道具の整備も怠りませんでした。ごく普通に穏やかな日常生活を送っていましたが、がん告知から5ヵ月ほど経った頃、何の前触れもなく吐血したのです。その日を境に、父親の身体は確実に最後の日へ向けて舵を切ったように思います。入退院を繰り返すようになり、病院から戻る度に確実に身体は変化していました。退院すると「家はいいなぁ」と嬉しそうにはしゃぎ、大好きなラーメンを平らげはしますが身体が疲れやすく重くなったようで、手足が思うように動かないのです。
亡くなる一か月ほど前、7月の梅雨の晴れ間の爽やかな青空が広がった日、私の運転で奥日光へドライブに行きました。湯元湖畔の駐車場に車を止めましたが、駐車場から湖畔までの50mを歩くことができず、車のバックドアを開けそこに座らせました。それでも湯ノ湖から吹く風を全身に浴びながら「山は気持ちいいなあ」と、ご機嫌な様子でした。
8月に入り最後の入院の時、担当の医師から長くて今月いっぱいだと伝えられ、在宅医療を勧められました。家に連れ帰る際、病室を後にする時、ベッド脇の棚に閉まってあった糖尿病のインスリンの注射類を私と母親が「もうこれを使うことはない」と粗雑に手提げ袋に放り投げると、驚いたことに父親が「そのうちまた使うんだから、ちゃんと保管しておけ」と怒るのです。「この人はまだ諦めていない」と、胸が締め付けられました。
もう食欲はほとんどなく、トイレに行くのもやっとという状態でしたが、「何とかもう一度、外の世界を見せたい」と猛暑の合間の曇りの日を狙い、「お父さん、今日は涼しいから鮎を食べに行こう。車まで歩ける?」と聞くと、父親は嬉しそうに「おお、行きたいな」と答えました、おむつを履かせ、自分で杖を突きながらやっとの思いで私の隣、いつもの助手席に座ってくれました。喜連川の道の駅の鮎小屋で「旨い、連れて来てくれてありがとう」と言いながら鮎の塩焼きを1匹食べたのが、最後の食事になりました。
癌という病が残酷なのは、最終盤になると1日ごとに身体のあちこちの組織が順番に機能を停止していく様を、本人と家族が自覚せざるを得ないことでしょう。昨日まで歩けたのに、今日はもうベッドから起き上がれないのです。幸いなことは、すい臓癌特有の痛みがまったく出なかったことです。家に戻って一週間後の2018年8月16日の送り盆の日、その日は夕立があり雨上がりの空の雲は夕日に照らされ、空一面が柔らかなオレンジ色に染まっていました。そしてそれは下界の世界全体を同じような優しいオレンジ色で包みこみ、もし極楽浄土があるのならこんな色彩なのだろうかと思ったことを覚えています。その晩、今までとはケタ違いの大量の吐血をし、父親は初めて悔しそうに「なんだよ、これで終わりなのか」という言葉を漏らし、それから5時間後に息を引き取りました。
癌という病を抱えながらも、亡くなる直前まで父親はうろたえもせず周囲に当たることもなく、希望を持っていつもの日常をいつもの心持ちのまま過ごしました。そういった最後の姿を私たちに示してくれた父親を、娘として誇りに思います。
到着したら降っていた雨も上がり、傘をささずに歩くことができました。茂木ゆかり宇都宮市議と共に。30代の若い女性である茂木市議は活発に地域を巡りながら、市民の声に耳を傾けています。
暗闇に浮かび上る「HOPE」の文字。がん患者さんやその家族、支援者さんやご遺族の方々がそれぞれの「想い」を書き留めた袋にLEDを入れて、トラックの周囲や観覧席をライトアップしています。
大会終了後、LEDの入った袋は毎年鹿沼市の薬王寺にてお焚き上げをし、皆さんのメッセージを空へと届けるそうです。