コラム
栗山英樹監督
先日、宇都宮市内のホテルにて「栃木県日経懇話会設立50周年記念パーティー」なるものに出席しました。天下の日本経済新聞社企画の催しだけあり、また設立50周年記念ということで、ゲストも大物でした。
栗山英樹氏、元日本ハムファイターズ監督。チームを2度のリーグ優勝、うち2016年にチームを日本一へ導き、さらに2023年のWBCでは侍ジャパンを世界一へと導いた名監督。
自分は野球に特別詳しいわけではないですが、国内トップクラスの選手を異なる組織から集めた期間限定のチームを世界一へと押し上げるには、いったいどんな手法を用い何が決め手となったのか?これは野球に限らず組織のリーダーとして、非常に気になるところでしょう。
約1時間の講話でしたが、あまりに内容が興味深く面白く、栗山監督のお人柄というか、ユーモアたっぷりに人情味あふれるエピソードを披露してくださいました。
人それぞれ解釈は異なると思いますが、総括すると「鬼滅の刃」でよく使われるフレーズ「一人はみんなのために、みんなは一人のために」闘うんだという、チーム全員の想いや意志、魂が一つにがっつり噛み合い最高潮に達した時、物事は動き出し奇跡が起きると、栗山監督は言いたいのかなと、私的には感じました。
監督曰く、大会期間中の7試合を闘うのに30人を招集するそうで、一流選手でも幼心(おさなごころ)みたいなものがあって「どうせ自分は出場できないし」とふてくされ、試合に集中しない選手も必ず出るそうで、そうなると絶対に勝てないそうです。たとえベンチにいようとも、30人全員が「自分がチームを勝たせる」という強い想いを持たない限り、優勝はできないという。
1つのサイン、1つの言葉が試合の流れを変えてしまうというギリギリ切羽詰まった状況下、最終的に流れを作るのは技術やシステムを越えたもの、「このチームを勝たせよう」という選手の濃密な意識が作り出すその場の空気感なのですね。それを作るためには、やはりコミュニケーションしかないと話されておりました。それぞれの選手の心理を読み、その選手に合ったコミュニケーションの取り方があり、それに相当苦心されたようです。究極の状況を経験した者だけが肌感覚で理解できる、非常に根源的な主題だと思いました。
最後にちょっとだけ、大谷選手のエピソードを話してくれました。
シーズンが終わった年末の12月24日、クリスマス・イブの夜、他の選手がひととき野球を離れ、家族や恋人と思い思いに過ごしている時期、大谷選手は一人バッティングセンターにやって来て、朝方まで数時間、黙々とバッティングの練習をしていたそうです。
翌日、監督は大谷選手に言いました。
「お前さ、せめてクリスマスくらい女の子のいるお店に行ってはじけるとか、やらないの?」
すると、大谷選手は意外そうな顔でこう答えたそうです。
「監督、クリスマスの夜に女の子のいるお店に行って飲むのが楽しいですか?その数時間、女の子と話すことが、どれだけ僕の人生に得になるのかわかりません」と。
大谷選手のすごいところは、技術がどうということではない。彼は野球が何よりも好きで、好きな野球をもっとうまくなりたいという純粋な欲求であり、彼の中では練習に対して曖昧さや迷いというものが全くなく、彼の世界には練習をするかしないかの選択肢しか存在しない・・・というようなことを話されていました。
大谷選手の思考法というか世界観は、いたってシンプルなのでした。
生涯に一度きりの今年の桜
もう4月の中旬になるので、桜の季節ともお別れです。自分はソメイヨシノよりも、山桜が好きです。ソメイヨシノはワッサワッサと派手にてんこ盛りに咲きますが、山桜のどこか可憐さがありながら、凛とした佇まいが好きです。
山中や野辺に山桜の大木が、たった独りで見事な花を咲かせている姿は本当に美しい。ソメイヨシノが桜の代名詞となったのは近代に入った明治以降のことで、それ以前の日本では、桜とは山桜を指したそうです。
今年は大きく環境が変わったことで忙しさもあり、桜を見に行く時間が取れなかったことが悔やまれます。桜をゆっくり見に行けなかった春は、何か大切なことを遣り残したような感覚があります。
若かりし頃、春は時期が来ると毎年同じ条件で、自分の生活のなかに入り込んでくるものでした。
だいぶ昔になりますが、五月の連休に東北方面に出かけた際、『桜の名所』と呼ばれる場所で、ご年配のグループと出くわしました。
聞けば、桜の開花を追いかけて関東から北海道に向かって北上しているとのこと。当時の私には、その行為がよく理解できませんでした。
「たかが桜のために、よくもまあ、あれだけの時間と労をかけられるものだ」というのが、正直な感想。「それほど執着しなくても、桜は去年も今年も、来年だって春が巡れば同じように咲くじゃない?」
ところがある時、突然気付いてしまったのです。今年の桜と来年の桜は違うのです。
30代も半ばを迎え、仕事も忙しくなった頃、帰宅は深夜という日が続いたことがありました。ひと月ほどそのような生活が続き、そして桜が満開になった頃、ようやく開放されるや、ご無沙汰していた遠方に住む彼氏に会うため意気揚々と出かけたのです。
気分転換をしたいという私を、彼はドライブに連れ出してくれました。その日の天気は文句なしの快晴。空は真っ青で季節は春爛漫・・・。そう、本当に眩しいほど世界は輝いていました。
桜の花は枝からこぼれ落ちんばかりに、たわわに咲いていました。陽射しと風を受け止めようと車の窓を全開にし、子供のように身を乗り出して、目に映るピンクや白の濃淡にウットリ酔いしれたのです。
「世界って、こんなに綺麗だったんだ・・・」
ずっと当たり前だと思っていた春の風景が、その日は違って見えました。隣に目をやれば、ハンドルを握る彼の姿。次の瞬間、唐突に涙がツーっと流れ落ちたのです。
あまりに力強く、艶やかな春の色彩に圧倒されながら、フッっと「この日、この瞬間に見た桜は、もう二度と見ることはできない」という思いが頭をよぎったのです。
追い討ちをかけるように「来年、この人とこうやって、桜を見ることはないかもしれない・・・」という絶望感が押し寄せてきました。
こういう矛盾した思いがごちゃまぜとなり、涙となって外に溢れ出たのです。
人の気持ち状態も、留めることは難しい。桜は来年も美しく咲くけれど、桜を愛でる側の環境は、きっと変わっていることでしょう。「無常」とはよく言ったもの。
いきなり泣き出した私を見て驚く彼に「こんな綺麗な桜を、いま隣で見られることが嬉しくて・・・」と言うと、照れながら「バカじゃないの」という返事。
桜を追いかけて移動していたあのお年寄りたちの気持ちが、その時少し分かったような気がしました。
現実は小説よりも奇なり
かねてより応援し選挙を手伝ってきた柏倉ゆうじが、2月の衆議院選挙で現職に返り咲いたことは報告しました。
周囲から何を言われようと諦めずに行動していると、人生には思いがけない事が起こるものです。
そして「縁あって関わった以上は、本人が諦めない限り支え続ける」と、10年近く選挙を手伝ってきた私自身の身にも思いがけないコトが起こり、
このたび柏倉ゆうじの地元公設秘書を拝命するに至りました。
正直、現役世代で選挙を手伝ってくれる人材を見つけるのは容易ではありません。
現役世代の優先順位は当然ながら、自分の仕事や子育てです。
私は自営のため時間に融通が利いたこと、そしてどういう縁か学生時代から選挙に関わり、自身も小学生の頃から「世の中何か違うよね、変だよね」という社会に対する疑問符を抱えていた子供だったことから考えると、進むべき道に進んでいると言えるかもしれません。
会社経営の傍ら、フリーライターとして地元で取材活動を行ってきた私の経歴は、医者としての道を歩んできた柏倉ゆうじとは異なるコミュニティを育んできました。
彼の立場からすれば、私のコミュニティは魅力の1つなのかもしれません。
「恩田さんの人脈と営業力をもって、さらなる支援拡大に努めてください!」という意味合いでの人事と解釈しています。
先日は早速、柏倉ゆうじの代理として「3環状12放射道路既成記念式典」「東部総合公園 アークタウン宇都宮 開園式典」「陸上自衛隊宇都宮駐屯地創立76周年記念行事」に参加。
船田元衆議院議員や上野道子参議院議員と同じ最前列に着席し、すまし顔で式典に臨みました。
周囲の方々は降って湧いたような人物に「こいつ、誰??」と思ったことでしょう。
そりゃそうですよ。私自身、「果たして、こういうコトがあっていいものだろうか?現実は小説よりも奇なり」と自問しております。
しかし、こんな経験、そうそう出来るもんじゃない。政治というものがどのように動いているのか、外側から見ているだけでは分からない、実際に台風の目の中に入ってみて初めて見えてくる世界もあります。「ありがたや、ありがたや」と感謝し、何よりも「衆議院議員 柏倉祐司 秘書」という肩書に恥じぬよう努めてまいりますゆえ、
皆様引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます!
猫という生き物は・・・(初代スー編)
ご近所の縁をつなぐ猫 (2015/5/26記)
スーがいなくなった。いずれ、そういう日が来るんじゃないかと覚悟はしていたが、ついにその日はやって来た。今の家に引っ越してきて、3週間が過ぎようとしていた。
スーは我が家の保護猫である。東日本大震災のあった2011年の暮れにどこからともなくやって来て、ちゃっかりウチの猫におさまった。スーが来た時、我が家にはすでに2匹の猫がいた。1匹はキジトラのおばあちゃん猫で、もう1匹は2010年の12月に迷い込んできた、若い白×黒ブチのメス猫だった。
スーは男の子だったから、白黒ブチのメスのハナちゃんを追いかけて(なにせ魅力的なお尻を持った女の子だったから)我が家にたどり着いたのだろう。
猫は縁あって拾うものだと思っているので、「ここにいたい」と主張する猫については保護し、避妊や去勢手術を施し家に置くようにしている。
犬は人になつき、猫は家になつくと昔から言われており、事故以外で猫がいなくなる大きな要因のひとつとして環境の変化があげられる。だから今回の引っ越しで、1番の懸案はスーだった。子猫ならともかく、大人の猫が劇的な環境の変化にうまく馴染んでくれるだろうか。
高校時代の友人である獣医のヨウコ先生に相談したところ、「この引っ越しを機に、スーちゃんを室内飼いにしたらいかがでしょうか。外飼いの猫を室内飼いにするのは、引っ越しがチャンスです。その際、ガラスや玄関をガリガリやって外に出たいと鳴いても、ひたすら無視することです。外でウィルスなどに感染した猫はかわいそうです。スーちゃんがうまく室内飼いに慣れることを祈ります。飼い主さんも忍耐が必要なので、頑張ってください。」と、ご丁寧なメールが届いた。
「スーと暮らすためには忍耐ね、忍耐」と私は気持ちを振い立たせ、2015年3月31日にキャリーケースに入れて、スーを新居に運び込んだのだ。
それから1週間、スーは朝も昼も夜も鳴き続けた。鳴き疲れると眠り、起きてはまた鳴いて、玄関やサッシを開けようと必死になってガリガリした。忍耐とはいえ、それはあまりにも見ていて不憫な姿だった。
たとえウィルスや事故から保護されようとも、こんなに外の世界を求める猫を家の中に隔離することが、本当に正しいことなのだろうか。
「病気や事故から守る」というのは人間側の言い分で、猫にとって一番残酷なのは、屋根や塀の上を歩いたり、お日さまの匂いのする草の上で昼寝をする自由を奪われることなんじゃないだろうか。でも、今外に出したら、絶対にスーは我が家に戻って来られないだろう。
引っ越して以来、スーの鳴き声で家族は全員寝不足になったが、10日目くらいから少し落ち着いたように見えた。鳴かない時は2階の窓から、ジっと外を見ているようになった。そうして家族が油断したすきに、トイレの窓の網戸を自分で器用に開けて脱走してしまったのだ。気付いて外を探したが、どこにも姿は見当たらない。
「ダメか・・」と思ったら、2時間後に前の家の方から「ニャー」と戻ってきた。外から帰って来たスーはとても満ち足りた顔をして、座布団の上でグッスリと眠った。
次の日、私はわざと部屋のサッシを少しだけ開け放しにしてみた。案の定、スーはそこから出て行った。そして今度は四時間後に戻ってきた。それが数日間続いた。「この調子でうまく周囲の地理を覚えてくれたら・・」と、期待に胸を膨らませた。でも外に出すのは昼間だけにしておいた。夜は動きが活発になるからだ。ところがある日、うっかりして夕方もサッシが開けたままになっており、気付いた時はスーが外に出てしまった後で、そして戻って来なかった。
でも、私はスーが一度脱走して以来、いつかこうなることはどこかで覚悟していたかもしれない。きっとスーは昼間近所を偵察し、あの日の夕方、覚悟を決めて家出を決行したのだ。自由と、もっと居心地のよい場所を求めて!
ところが・・・だ。
約ひと月後、スーが見つかった。しかも驚くべきことに、前の家にちゃんと帰っていたのである。
5月も半ばばを過ぎた月曜日の朝、元の家の二軒隣だったウガジン床屋から電話が入った。
「さっきね、隣のツノダさんと話していたら、オンダさんとこの猫らしいのが庭に来たって言ってるんだよ。ツノダさんに連絡してみなよ」
というので、早速ツノダさん(元の家の道をはさんで向かい側の家で、祖父母の代から交流があるお宅)に電話をしてみた。
「どうも、ご無沙汰してます。さっきね、ウガジンさんからうちの猫らしいのがツノダさんとこに来たって連絡をもらったんですけど、ウチの猫でしたか?新居に連れていったら、ひと月前にいなくなっちゃったんですよ」
「そうそう、猫が来てるよ。オンダさんの猫のような気がするんだけどなぁ」
そこで、すぐに母親とツノダさんを訪ね、携帯に保存してあったスーの写真を見せた。
「こんな感じの猫だけど・・」
「こんな感じだったような気がするけど、なにせいつも見かけるのが夕方だから、色がはっきりわかんないんだよね」
「いつ頃から見かけるようになりました?」
「いやぁ、ここ四、五日くらいかなぁ」
そういった会話を交わし、また見かけたら連絡もらえるようにツノダさんに頼んで、ひとまず家に戻った。その際、ツノダさんの奥さんは、世間話をしながら何気なく、庭の花を五本ほど切って分けてくれた。
それから小一時間後、暗くなった頃にツノダさんから「いま来てるよ!やっぱりあの猫だよ!」と電話があり、取るものもとりあえず再び出動。
「今さっきまでここにいて、外からウチの中をのぞいてたけど、ちょっと前にタタミ屋さんの作業場に入っていっちゃったよ」とツノダさん。ふと下を見ると、玄関横に、水と焼いたシャケの骨が置いてある。ツノダさん、ちゃんと気にかけてくれていたんだ。ありがたいな。
タタミ屋さんは、昔の我が家のすぐ南側の家である。先代のご主人は早くに亡くなり、今はノンちゃんという、先代の次男さんが家業を継いでいる。たしかにスーはこちらにいた頃、タタミ屋さんの仕事場付近をよくうろついていた。
でも、3つ年上のノンちゃんは私の幼なじみだが、もうだいぶ長いこと言葉を交わしてしなかった。
「すみません。ウチの猫が戻ってきていると目撃情報があって、こちらで見かけませんでした?」
裏口から思い切って、作業場のノンちゃんに声をかけた。
「あれ?オンダさんとこの猫って、もう二週間前から来てるよ。だから置いていったのかと思ってたけど、そうか、戻ってきたんだね」
と気さくに答えてくれた。ノンちゃんと数十年ぶりの会話である。
2週間前とは、意外に早い時期に、スーは戻っていたのである。しかもよくよく話を聞けば、こちらにいた時から、スーはちょくちょくタタミ屋さんの作業場におじゃまして、ゴロゴロ寝ていたらしい。
タタミ屋さんも動物好きで犬を飼っているのだが、そのワンちゃんもすっかりスーには慣れっこになって、見かけても特に吠えないのだそうだ。
猫は何軒か家を持つと言われているが、はやりスーもそうだった。知らぬは飼い主ばかりである。とりあえず見かけたら連絡くれるよう、ノンちゃんに自分の名刺を置いてきた。
そして翌朝、いよいよ再会の日が訪れたのである。
朝8時にノンちゃんから電話が入った。速攻で向かうと、ノンちゃんが作業場にやって来たスーを捕まえておいてくれたのだ。それは正真正銘のスーだった。ガリガリに痩せこけていたらどうしようと心配だったが、見た目はほとんど変わらない。毛並みもきれいで、汚れていない。抱っこしたら多少軽くなったかな?と感じる程度で、もともと肥満気味だったから、ちょうど良い体重になったともいえる。
いなくなってひと月、もし食べ物に不自由していたら、こんな状態は保てるはずはない。これはどこかに、エサ場を確保していると考えるほうが自然である。
しかし何より驚くべきことは、スーが元の家に戻ったという事実だ。
よく猫が元の家へ戻る話は聞く。しかし、あのおっとりとしたスーにそんな能力があったとは・・。
元の家と今の家は、直線距離にすれば2キロくらい。でも、その間には、宇都宮環状線という車の往来が絶えない四車線道路が横たわっている。
命を危険にさらす環状線越えを、スーは独りでやってのけたのだ。何とまあ。よくぞ無事で渡りきったこと!
色々調べてみると、この猫の帰巣本能はある種の特別な能力であるという。目標を定めると、頭の中で立体的な地図を作成する能力が猫にはあると考えられているようだ。もしくは、ある特定の目印や方向にのみ強く反応する能力とか。
スーは新居に引っ越した後、夜になると私の2階の部屋から、じっと元の家の方角を見据えていた。
少し高台にあるため、遠方までよく見渡せる場所だった。スーが見つめるその先には、元の家の前にあったスーパーたいらやの看板が「こっちこっち」と呼びかけるように、光を放っている。
「あそこに絶対帰る」と、スーは遠くに光るたいらやの看板を見つめながら、頭の中に地図を描いていたのだろうか。そして3日間、元の家に辿り着くためのスタート地点を確認し、私たちが「外に出てもこの子は戻って来るから」と油断したすきに、家出を決行したのだろうか。
もしかしたら元の家は大谷街道沿いだったため、車が道路から消える時間帯を、スーは感覚で分かっていたのかも知れない。環状線から唯一車が消える時間帯は、夜中の3時から4時の間だ。その時間帯なら、猫の足でも無事に四車線道路を渡り切れる。
とにもかくにも、スーは命を賭して、懐かしい我が家に戻った。その意志は何がどうなろうと、決して変わらないだろう。たとえ連れ戻しても、スーにとってはありがた迷惑なだけかも知れない。そして再び家出をするだろう。ただし、次は無事に環状線を越えられるとは限らない。
そんな事情を説明すると、ツノダさんもノンちゃんも、他の組内の皆さんも、スーを見守ってくれることを快諾してくれた。私たちがノンちゃんに、定期的にキャットフードを預けに行くことで話がまとまった。
まったくもって、ご近所の底力とスーの人徳ならぬ、猫徳を見た思いである。初夏の爽やかな空気が香る5月の夕暮れ時、一匹の猫の大胆な勇気と行動によって、消えかけていたご近所の縁が再びつながったのである。
猫という生き物は・・・(ハナちゃん編)
桜の季節の別れ(2012/4/25の記)
飼い猫のハナちゃんが突然いなくなって、もう2週間以上になる。前の日の夜まで何事もなく、その辺りを走り回り炬燵で眠っていたのに、朝になって戻って来なかった。
その数日前の夜、私は家の階段の上でハナちゃんを思わず踏んづけてバランスを崩し、階段下の玄関のドアの前まで頭から滑り落ちた。電気をつけず階段へ足を踏み出したら、そこにハナちゃんがうずくまっていたのだ。私を階段で待っていたんだな。階段から落ちた時、ものすごい音が家中に響きわたり、家族は雷が落ちたと思ったらしい。滑り落ちながら私は「ハナちゃんを巻き込んじゃいけない」と、それだけが心配だった。
ハナちゃんは黒×白のツートンカラーのメスのブチ猫で、顔は黒のヘルメットをかぶっているように見えた。パーマンの顔に猫耳をつけた感じとイメージすればいい。そこに金色の大きな目がついていた。美人ではないが、個性的な顔だ。お腹は真っ白で胸の部分に黒い丸いポッチがあった。背中から尻尾はツヤツヤした黒い毛で被われていた。だから暗闇でうずくまると、闇にまぎれて見えない忍者猫だった。
玄関前で激痛に絶える私の視界の隅っこに、一目散に外に走って逃げるハナちゃんの姿がチラリと入ってきた。
(あぁ、ハナちゃんは無事だったんだ)
とホッとした。その後救急車で運ばれて、骨折の処置をして帰ってきたのが明け方で、そしたらハナちゃんも外から戻ってきた。申し訳なさそうな顔をして、小さくなっているハナちゃんが何とも不憫だったな。
「ハナちゃん、踏んじゃってごめんね。痛くなかった?」と頭を撫でてあげたら、金色の目で「ゴメンネ(たぶんそう言ったと思う)」と、私を見上げていたハナちゃん。
私は右腕を骨折したがハナちゃんは特に変わりはなく、ご飯をモリモリ食べ、昨年12月から家族に加わった弟分のスーとじゃれ合いながら、いつもと同じ日常を送り、それから六日後に忽然と姿を消した。
ここ2年ばかり、年末になると立て続けになぜか猫が迷い込んでくる。ハナちゃんが我が家に来たのは一昨年の12月。翌年の12月にはオスのスーが、ハナちゃんを追いかけてどこからともなくやって来て、そのまま我が家に居座った。
ハナちゃんを来たのは、寒い冬の夜だった。まだ手のひらに乗るくらいの子猫で、体調が悪いのか、目ヤニで目がふさがっていた。下痢もひどく、お尻のあたりはただれて、毛が抜け落ちていた。でもありったけの力を振り絞って懸命に我が家の軒下で、ミャーミャー鳴いていた。
「気のせい、気のせい」としばらく無視していたが、とうとう鳴き声に耐えられず拾ったのだ。
牛乳をあげたら、ペロペロ舐めた(すぐに下から汚水となって出てきたが・・)。
抱っこすると安心したのかスースー眠りだしたので、私も茶の間の炬燵に入ったまま、朝までずっと膝の上に置いてあげた。
自分が拾って一晩抱いていた猫のせいか、3匹の猫(もう1匹、14歳の高齢猫がいる)のなかで、ハナちゃんへの愛情は特別なものがあったと思う。
スーがやって来る前のハナちゃんは勝気で独占欲が強く、よく高齢猫をいじめていたが、スーが来て弟分ができるとだいぶ変わった。何より高齢猫をいじめなくなった。お姉ちゃんとしての自覚が出てきたのと、じゃれ合う相手が見つかり張り合いが出たのかも知れない。
それでもやはりハナちゃんは、一番活発な猫だった。オスのスーは台所の椅子の上でぐうたら寝ている時間が多いが、ハナちゃんはいつもアグレッシブに、外をパトロールしていた。動くせいか食欲旺盛、狩も上手、体も女の子なのに筋肉質でガッチリしていて、この子は絶対に病気なんかに縁がないだろうと思っていた。
今回はその活発さが仇となってしまったのだろうか。でもそれは、外猫の宿命でもあるのだ。我が家の猫は昔から環境が許す限り、家と外を自由に行き来していた。猫たちは塀の上で日なたぼっこをし、芝生の上を歩き、草むらで蛙やトカゲを狙い鳥や小動物を狩る。
獣医の友人には「いろんな場所で病気やケガをもらってくるから危ないよ」と言われたが、猫は犬より野生性が強い。雨上がりの廊下についた猫の足跡には辟易するが、なるべく本能に忠実に野生を生きて欲しい。でもそれは裏を返せば危険と、そして死と隣り合わせということでもある。
いなくなってから、何度も家の周りをハナちゃんの名前を呼びながら探し歩いた。家族にしかなつかない猫だったので、他人には絶対に自分からは近づかない。とすると、たぶんどこかで何らかの事情で動けなくなっている可能性が高い。外猫は体の具合が悪くなると、人目を避けて物陰にかくれ、じっとしている習性がある。昔の猫は寿命が尽きる時、人間の前から姿を消すのが普通だった。人間は猫の最期を看取れるようになったのは。家の中で飼ったり、動物病院に連れて行く習慣が普及した最近になってからのことだ。
しかし、昨日まで元気でいっしょに暮らしていた小さい者が今日はいない・・というこの信じがたい現実。たとえ猫でも、自分の手で小さい頃から愛しんだ者が突然姿を消して行方がわからない、という出来事を前にして、子供が突然行方不明になったり、事故で亡くなった親の思いが重なった。
次節がら、3月11日にNHKの特別番組で、震災で娘が未だに行方不明いう夫婦の1年が紹介されていた。父親は震災以来、毎日日記をつけていた。日記の最後に必ず「○○(娘の名前)、今日も帰らず」と書き留めていた。来る日も来る日も、最後は同じ言葉だった。
遺体と対面しないうちは、人間は「死」という現実をなかなか受け入れられないものなのだ。もしかしたらどこかで生きているんじゃないかと、淡い期待を抱いてしまう。仮に「死」を受け入れても、なんとか亡骸だけは自分の手で弔いたいと思うのだ。外で自由に遊ばせておいて矛盾しているかもしれないが、誰も知らない寂しい場所で、冷たい雨にたった一人で打たれていると思うと不憫でならない。
津波にさらわれたまま、戻って来ない人を待つ日々を生きる者の思いは、いかばかりだろうか。
3月11日の新聞の寄せ書きに、「水泳が好きだったから、まだどこかで泳いでいるのかなぁ。会いたいよ」と、行方不明の娘への思いを綴った父親の言葉に胸が詰まった。
平年よりだいぶ遅れて、桜の花が満開になった日、宵の明星が西の空に輝き出す時刻、スーが隣りの駐車場の角に咲く桜の木の根元に座り込み、じっと花を見上げていた。私も近寄って桜をいっしょに見る。
「ハナちゃんはいいお姉ちゃんだったよね、スー」
「ミャー」
「スーはハナちゃんが大好きだったものね。どこに行っちゃったんだろうね」
「ミャー」
「お星様になったのかもね」
思わず自分の言葉にたじろいだ。この年齢になっても、素直にこんな素朴な気持ちになることに、我ながら驚いた。
ネアンデルタール人でさえ、すでに葬送の儀式を行った痕跡を持つと言われている。感情を持つ人間はこうやって幾歳月、愛する者と別れる時、そこに何らかの意味を見いだし、その深い悲しみを乗り越えてきたのだろう。
満開の桜の花影に、ピンク色の首輪をした金色の目のハナちゃんをスーは見ていたのかも知れない。


