コラム
AI時代に大切なこと
「AIが人間の仕事を奪う」と言われる昨今、たまたまAIを生業とする経営者の方と知り合う機会を得ました。ちょうど良い機会と、試しにAIに作文を書いてもらうことに。そのために基本的な情報を入力しどんな物語に仕上げるかAIに指示を出すわけですが、学生時代を思い出し「ワンダーフォーゲル部の夏合宿中に起きたハプニングがきっかけで、憧れの先輩と付き合うことになった」という筋書きを依頼してみました。登場人物は自分と意中の先輩、そして2人の友人です。
果たして、AIがこれらシンプルな情報からどれほどの物語を展開してくれるのか、興味深々でした。条件を入力すると、間髪を入れずスラスラと画面に言葉が並び始めます。
「・・・・・。」
正直、絶句しました。話には聞いていましたが、AIはたったあれだけの情報からまるで「行間」を読解したかのごとく、大雑把なあらすじは見事に脚色され、いっぱしのショートストーリーが完成しました。しかも、文章は実に自然な言葉で描かれ全体の構成も違和感なく、これが完成するまでに1分とかかっていません。
50代後半になり多くの経験が上書きされた自分の頭では、悲しいかな、すでに当時の瑞々しい情感の断片しか思い出せなくなっています。思い出せないということは、言葉として表現できないということです。ところがAIは、20代の自分が感じていたであろう「ときめき」や「高揚感」を、膨大なデータから最適な言葉を選び出し、あたかも経験したかのごとくもっともらしく表現しました。もっと細かく具体的な指示を出せば、物語はさらに複雑化していきます。
「こりゃ、まいった」と思いました。人間はAIに言葉を委ねるしかないのでしょうか。
いやいや、冷静に考えればAIは確率です。AIが示した言葉や物語に「そうそう、あの頃はきっとこんなことを考えていた。AIはよく分かっている」と共感しますが、AIは私自身の行動を見ていたわけでもないし、私はAIに自分の感情を吐露したわけでもありません。AIはその前後の言葉や文脈から「まあ、この条件を前提に様々な人たちから集めた行動や感情のパターンを分析すると、君の言いたいことはこれでしょう」と、最も確率的に高いと判断した言葉やシナリオをAIが提示してくるのでしょう。
それに、AIの描く文章はたしかに外見は完璧だけど、完璧すぎてどこか空々しさを感じるのです。見た目は美しいけれど魂が無い・・・というか。
今後、AIと共存するためにも人間だけが持つ「らしさ」をより大切にしたい。しかし、この分野の進化のスピードは半端ない。やがては「言霊」を宿した言葉を操るAIが現れるのでしょうか?
高市早苗内閣総理大臣と共に
真面目に感動しました。昭和生まれの世代としては、この日本で女性の総理大臣がアメリカよりも早く誕生した事実に「本当に時代が変わったんだ」と、心底思わざるを得ません。
白状すれば、私自身もかつては「女性に政治は無理だ」と考えていた一人です。女性はどうしても視野が狭くなり、大局的なモノの見方が出来ないと考えていましたから。目の前の案件に右往左往し、俯瞰的な眼差しで国家の行く末を論じることなど不可能だと思っていました。でも、昭和から平成、令和へと時代が移るなか、日本の女性も変わってきました。
政治の世界では1980年代後半、「マドンナ旋風」なるものが吹き荒れ、故・土井たか子委員長率いる日本社会党(現社民党)が大幅に議席を伸ばし、与党である自民党に迫る大躍進を遂げたことを覚えている人は多いと思います。その時、日本社会党から立候補した多くの女性議員が当選しました。なぜあの時社会党が支持を伸ばしたのかは政治評論家の先生に解説いただくとして、社会党の躍進を受け当時の土井委員長が口にした「山が動いた」という言葉が、自分には強く印象に残っています。それは明治の歌人・与謝野晶子の言葉であることを後から知りました。
明治時代、欧米由来の自由な思想に触れ、それまで男性の陰に隠れ夫唱婦随を美徳としていた日本女性の意識にも変化が生じました。我が国にも女性の解放や権利取得を訴える今でいうフェミニストが現れ、その先駆者的人物が社会や歴史の授業でも習う「平塚らいてう」です。らいてうは女性の自立を謳う「青鞜」という雑誌を創刊し、そこに「原始女性は太陽であった」という有名な言葉を残しました。この創刊号に与謝野晶子が「そぞろごと」と題した9ページにわたる詩を寄せ、その冒頭部分に「山が動く‥」の言葉があります。
山の動く日来る
かく云へども人われを信ぜじ
山はしばらく眠りしのみ
その昔において
山は皆火に燃えて動きしものを
されど、そは信ぜずともよし
人よ、ああ、ただこれを信ぜよ
すべて眠りし女(おなご)
今ぞ目覚めて動くなる
何だかんだ言っても、女性は優しいんです。そして、コミュケーションが得意です。戦争なんて大嫌いです。世界の国々のトップが女性ならば、もっと話し合いで解決することが多くなるのではないでしょうか。でも、大切なものが傷つけられるとなるや、物凄い強さと行動力を発揮するのも女性です。まさに「山は皆火に燃えて動きしものを・・」です。山の神様は女性ですから。
ただ彼女たち全員が時代の先端をスマートに駆け抜けたわけではありません。晶子は歌人で夫の与謝野鉄幹との間に12人の子供を産み、子育てをしながらギリギリの生活のなか稼ぎの無い夫と家庭を自身の文筆活動で支え続けたといいます。らいてうの跡を継いで青鞜の編集に携わり、活発な言論活動を繰り広げていた伊藤野枝は母親に「私は畳の上では死ねんとよ」と言い、その通り関東大震災の混乱時、事実上のパートナーであったアナーキスト・大杉栄と共に憲兵隊に捕えられ、殴殺され古井戸に投げ捨てられるという悲劇に見舞われました。青鞜創刊号の表紙を描いた長沼智恵子(智恵子抄の作者で彫刻家・高村光太郎の妻)は、時代に変遷と共に没落した実家を憂い、統合失調症になってしまいます。そういった先人たちの歴史の上に今があります。
晶子の「そぞろごと」は次の言葉へと続いています。
一人称にてのみ物書かばや
われは女ぞ
一人称にてのみ物書かばや
われは われは
これは「自分の責任で、自らの言葉で表現する。それが女である」という意味だとか。
女性初の総理大臣に期待するなどと全て責任を押し付けているうちは、状況は何も変わりません。先輩たちの魂が叫んでいるように、世界を創るのは自分自身なのです。高市早苗総理に期待するとともに、私たちも自らの足で進んでまいりましょうや。
グループホーム
知人が開設したグループホームを「手伝ってほしい」と言われ、今年の春から「世話人」という立場でサポートしています。最初は「福祉の経験も資格もないし、そこまで関わる時間も精神的余裕もない!」と断りましたが、私の「断り切れない性格」を見通しているのか、粘りに粘られ「出来る範囲で」という条件で引き受けました。それで週に1、2回、朝食を作りに行っています。
一般の住宅をリフォームしたので、部屋数は少なく4部屋しかありません。そこに現在2名の方が入居しています。軽度の知的障害を持ったH君はまだ19歳の男の子で大手企業に就業しており、50代前半の男性Aさんは社会に出てからストレスにより精神障害と認定され、今は就労支援施設で社会復帰の訓練中です。
実際に会ってみると、二人とも自分と何も変わらないごく普通の人たちでした。一緒のテーブルで向き合って3人で朝ご飯を食べた後、あと片付けをして「行ってらっしゃい」と送り出すまでの仕事なので、当初は割り切って言われた仕事だけ淡々とこなそうと考えていました。ところが、たとえ週に1,2回の担当でも「情」というものは移るものです。
アニメ好きのH君とは「鬼滅の刃」の話で盛り上がり、Aさんは年齢が近いこともあり、小さい頃見たテレビの話や同じ趣味の登山の話、時事問題についても話します。ただ、時々里帰りに自宅に戻るH君とは違い、Aさんは諸事情で里帰りが叶わず、入所以来、就労支援施設に出向く以外はグループホームを出ることはありませんでした。
「これじゃあカゴの中の鳥だよ。気分転換に外へ連れ出してあげようよ」と、施設の代表に訴えました。しかし回答は「入院生活も長く体力も落ちているから、まずは自発的に外に出て散歩をして体力をつけることから」というものでした。Aさんが「朝食に納豆があるといいですね」と言うので「納豆は安いし体にも良いから、朝食メニューに加えてほしい」と伝えると「納豆が食べたいなら自分の小遣いで買ってもらう。このグループホームは自立を促す場所だから、自分の希望は自ら行動して自ら叶える経験が必要なんだよ」と諭されました。
そこで一計を案じ、「私の会社が請負っている物流倉庫の仕事を体力づくりの一環としてやってもらう」という名目で、土曜日にAさんを車に乗せ、現場である倉庫へ連れて行ったのです。車窓から流れる景色を好奇心いっぱいの目で追いながら「しばらく見ないうちに、こんなに街は変わったんですね」とつぶやくAさん。「そうだよ、世界は常に変化してる。外に出るって楽しいでしょう」と私。倉庫に着いて、そこで2時間ほど荷物仕分けの作業をしてもらいました。Aさんは汗をかきながら「楽しいです。こういう仕事は好きです」と、生き生きと動いていました。帰りにセブンに寄ってガリガリくんのソーダ味を食べて、幸楽苑でラーメンと炒飯セットをご馳走すると「美味しい!入院以来はじめてガリガリくんとラーメン食べました」と、心から喜んでいる様子でした。
しかし、良かれと思って行ったこれら一連の行為が大きな問題となりました。私の行為は「障害者を無償で働かせた」と取られかねないというのです。なるほど、行政の解釈はかくも現場の感覚とかけ離れ、かくも融通が利かないものであることをつくづくと思い知らされたのです。
でも、あれからAさんに変化が起きました。自分のやりたい仕事を具体的に主張するようになり、就労支援施設と相談員さん、グループホームの代表で話し合った結果、本人の希望を尊重し、Aさんは従来とは別の作業に就くことになったのです。そして部屋にこもり外出しようとしなかったAさんが、新しい現場で使う軍手を買うために数キロ先にあるウェルシアまで自らの足で歩き、おまけに納豆も自分で買い求め食べるようになりました。
入居者2名の小さな施設でさえ生身の人間が暮らす以上、大小様々な問題が起こりその都度考えさせられます。たとえ小さな変化でも、それがボジティブなものであれば大きな希望となります。そして何かの縁で関わった以上、目の前にいる人たちの幸せを願わずにはいられません。

10月の3連休の中日にグループホームの庭でバーベキュー大会が開かれました。施設の代表が庭に小さな畑を作り、そこに植えたサツマイモも収穫します。前日の雨とうって変わり秋晴れの下、スタッフやボランティアの人たちと共に、炭をおこし肉や野菜、収穫したサツマイモを焼きました。ご馳走に入居者の皆さんも大喜びでした。

みんなで収穫したサツマイモ

地域のボランティアさんも大活躍

鮎の塩焼きも登場
時代の大きな転換期、20年前の想いをあらたに
ー時代の大きく変わろうとしている今、ちょうど20年前の37歳の時に備忘録として書き留めておいた文章をアップしておきます。
「有永明人先生の思い出/2005年3月末日 記」
2005年3月中旬、私は数年ぶりに学生時代を過ごした山形県庄内地方に向かっていた。当時お世話になったゼミの教授、有永明人先生の退官記念最終講義に出席するためだ。当日、東北地方は真冬並みの寒波に覆われ、3月初めの吾妻連峰の谷や峰は春の片りんさえ見えない深い雪に埋もれていて、早春の陽にキラキラ光る残雪の山を見ることは叶わなかった。
電車が山形市を過ぎ、さくらんぼで有名な東根付近にさしかかると、ひときわ真っ白な頂をもつ山が左側の視界に大きく入り込んでくる。「月山」だ。よく霊山とか死者の集う山とか形容されるが、頭上に厚い雪の層を戴き月明かりに厳かに浮かび上がる月山を目の当たりにすれば、誰でも言葉を慎むだろう。月山は今も変わらず、静かに見る者を圧倒していた。
大学に入学して初めて、私は福島県を越えた。入学した年は昭和63年度、昭和の最後でバブルが崩壊する前夜だ。
生まれてから成長期にかけてちょうど高度成長期やバブル経済期と重なり、子ども時代にそれらのエキスを一身に浴びて育った世代の私たちに、大人たちは(借り物の)理想やお手本を与え、それを手本とすれば豊かな人生が保障されると吹聴した。いまや、あらゆる価値観やモデルは崩壊しひとつの時代の終焉を見届けた私たちは、なかば呆然となって、もしくはあえて目を逸らし気付かぬふりして時代の過渡期に立っている。
「世界に冠たる東北の森林」
「庄内浜で釣りをしながら世界を視る」
これがゼミの間にどちらか一度は聞くことになる有永先生十八番のセリフだった。生粋のアウトローでアナーキストでロマンチストな先生との出会いは衝撃的で、一年生のときの初講義でいきなり打ちのめされてしまった私は、「四年生になったら絶対にこの先生の研究室へ入る」と心に誓った。
「日本は世界有数の森林国なんだ。国土の67%が森林なんだよ。世界中どこの国もかなわない。とくに、この東北地方の森の豊かさは世界一だ。ボクのいう豊かさは量的なものじゃなく、樹種の多さと分布の多様性だ。ボクの生まれは九州だけど、東北の日本海側に来てその質的豊かさに心底驚かされた。日本人はヨーロッパの人々に比べ森林を知らない…と言う人がいるけど、例えばね、東北の人ほど多種の山菜を多様に食べる民族は他にいないね。山野草を利用する食文化と食生活の多様さこそ、東北人がその歴史を通じて豊かな森林観を形成してきた証だよ」
小さい頃から「お山はいいなあ。お山のそばに住みたい」という言葉を口にし、母親に言わせれば遊園地より山に連れて行くほうが喜ぶ子どもだった私は、大学時代ワンダーフォーゲル部に所属し、蔵王連山、朝日連峰、飯豊連峰、吾妻連峰といった山形、新潟、福島にまたがる山々を仲間たちと縦走した。当時は今のようにおしゃれで高性能なアウトドアウェアもグッズも充実しておらず(都会では売っていたのかもしれないが、当時の山形にはそういう店はなかった)、デパートのワゴンセールで買ったTシャツや綿シャツにジャージをはいて重たいキスリングを背負い歩いていた。
通称ワンゲルの活動はGW明け、雪女伝説で名高い笹谷峠から蔵王の霊峰熊野岳まで縦走する第一次錬成合宿からスタートする。東北の山の四季は夢のようだった。二次錬、三次錬と続くうちに山々は魔法のように変化していった。五月半ば、稜線にも遅い春が到来し柔らかい産毛に包まれた生まれたばかりの黄緑色の新芽がふんわり木々を覆い始める。
「ホラ、山がうっすら笑っているように見えるだろう」
この情景をそんなふうに表現した先輩がいた。本当に山は笑っていた。
六月ともなれば、稜線は新緑の海となる。ブナの林は爽やかな6月の光を反射し、美しい黄緑のグラデーションを造りながら初夏の風に波打っている。ナラやトチノキ、カバにカエデ、あらゆる広葉樹がまだ柔らかい若々しい葉を伸ばし、存分に光と二酸化炭素を体内に採り入れ命の元を生成している。遠くでカッコーの声がする。木々が生み出す新鮮な空気をもらって呼吸する。静寂のなかに聴こえるのは、山を抜ける風の音だけだ。気が付くと、私はこの空間と不思議な一体感のなかにいた。
(そうか、自分は生かされている。これは山の神様の贈り物なんだ…)
高度経済成長にともない1950年代から始まる国の拡大造林政策によって、かつて豊富にこの国に存在した広葉樹天然林の大規模な伐採が敢行された。その跡地にスギやヒノキの単一樹種による一斉林が造られると様々な樹種で構成されていた広葉樹林帯は姿を消し、山は住宅用材という資本提供の場と化していく。
「それは結果であって、根本的要因はもっと根深いところにある。いいかい、この国の林業は薪や炭でもっていたんだ。日本人は長い間森林から生産される下草や間伐材を日々の生活に使う飼料として利用してきたんだよ。そこにはその土地ごとの自然条件を生かした多様な森林の利用、つまり森林文化があった。日本人が昔からスギやヒノキを大量に造林してきたなんて思っちゃいけない。戦前までは、せいぜい一番利用しない谷地みたいなところにほそぼそとスギを植えていただけなんだ。ところが戦後エネルギー革命が起きて、山村の隅々までプロパンガスや石油が浸透すると燃料としての薪や炭が生産されなくなった。そうすると、生活の糧として森林は必要なくなる。この時から山里の生活と森が切り離されていったんだ」
そして私たちの精神も生活も、森や木と同じだ。巨大資本とその申し子のマスメディアは戦後数十年かけて、多様性に富んだ各地の暮らしや知恵や文化、人間の心までもブルドーザーのように根こそぎ解体し画一化してしまった。本来、北から南に長い日本列島は地域ごとに衣食住とも変化に富んだ生活様式を保っていたはずなのに、今では日本の地方はどこに行っても、同じような景色になってしまった。そして多様性を失ったことと引き換えに、私たちはどこに住んでも一定の平均的で、便利な生活を送れるようになった。
(先生、この国の森はどうやったら守れるの?)
「先生は学者だからね。歴史や事実を解明して、世の中のからくりやインチキを暴くのが仕事だ。すべてはそこから始る。事実を踏まえて、課題を提供するんだよ」
先生はいつもそういって笑った。私にはそれで十分だ。先生が大きな宿題を与えてくれたことは分かっているから。生きているうちにすべてを解決することは不可能かもしれない。それでも資本主義という旗印のもと、飽くなき欲望を追及し生きてきた私たちが負うべき義務なのだろう。
「でも確かに言えることは、かつて日本の里山で行われていた薪炭材の生産と薪炭林の施業が、結果的に森林を上手に維持・管理していたってことだ。そのなかでは森林の再生は伐根でなく、萌芽が基本となる。つまり、森林を15年から20年サイクルで「弱度に、しばしば伐採する」ことで里山の森林は世代的に若返り、健全な状態が維持されたってわけだ。これは日本が世界に誇る伝統的な森林のリサイクル・システムなんだよ。だからね、山で生活する者たちが森林を自分たちの手に取り戻さなくちゃならないんだ。衣食住の基本的な生活用資材を地域の自然に依って、もう一度リサイクル・システムを造り出すことだ」
市場原理って、絶対的なものなのか?否、違う。それは誰かが作り出した、誰かにとって都合の良いシステム。大切なのは自分の自由な心で感じること、そして自分の頭で考えることだ。真実は自分自身の中に、きっと人の数だけ存在する。
「君の感性はすばらしいし、文章もなかなか上手いけれど、科学的分析が足りないね。感性だけではダメだよ。事実をきちんと論理的に分析しなくちゃいかん」
先生は私がレポートを提出するたびにそう言った。
先生の講義はずっと私の中の特別室に大切に保管されていて、今なお色褪せず私を揺さぶり突き動かす。卒業時、クラスの大半が地元にUターンし公務員に落ち着いたなかで、ダメ学生の私はその道を選ばなかった。けれども、どんなにまわり道をしても、私はいつか原点に帰ろう。どこにいても何をしていても、自分の中の宝石は、決して曇ることのないよう密やかに磨いていようと思う。それは子ども時代に感じた山や自然への思いであり、丸坊主に伐採された山を見たときの、十代のあの日の違和感であり、そして先生から受けた教えの数々だ。
「君は小論文だけで大学に入学したんだな?まあ、それもいいだろう。真実に近づく入口は、まず感性から入ることだからね。でも勉強が足りん」
先生、私はあいかわらず成長していないでしょうか?
高市早苗氏の総裁就任を受け、日本の国土を想う
先日、自民党総裁に高市早苗氏が就任しました。女性初であることも喜ばしいですが「景色を変える」という言葉に大きく期待しております。自分の中では、小泉進次郎氏の就任は絶対にあってはならないことでした。
彼は環境大臣だった2020年、国立公園内における再生可能エネルギー施設設置の規制緩和を促進する必要性を表明しました。それを受けて、2022年の自然公園法施工規則改正に伴い太陽光、風力、地熱などの再生可能エネルギーの設置が許可されやすくなり、結果として現在問題となっている釧路湿原のメガソーラーなどのプロジェクトの基盤が整備されたと言われています。
もう物心ついた時から誰に教わることもなく、自然とのバランスを考えず経済活動を優先するこの国の行く末に「何か違う」と本能的な違和感を抱いていました。自分はこれらの問題に関しては感情的です。深く悲しみ憤ります。その部分は非常に女性的であり、逆に女性性を大いに出して良いと思っています。まずは己の違和感や感情を原点としそこを大切にしながら、これからどうするべきか、知恵を出し合い考えるのです。それゆえ、これからの時代を担う女性リーダーの誕生を嬉しく思います。
