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コラム

2026
03 / 16
22:10

猫という生き物は・・・

猫という生き物は・・・

我が家の保護猫の「コイチャ」が、家からいなくなった。だいぶ弱っていたので、たぶんどこかで独りひっそりと亡くなったのだろう。

2月末のある晩、チャチャといっしょに箱の中で寝ていると思ったら、ちょっと目を離した隙に姿を消したので「あっ、これでコイチャとは永遠のお別れだ」と悟った。

猫は死ぬ前に姿を消すというけれど、外へ自由に出られる環境にしていると、たとえ飼い猫であったとしても猫は己の寿命が尽きる時、静かに黙って消えていく。それが猫という生き物だ。

 

この家に引っ越してきたのが11年前。当時、避妊も去勢もせず猫をダダ洩れで増やす家が近所にあり、そこからはみ出した猫たちが、我が家に3匹やってきた。

まず「スー」が乗り込んできた。小柄だが、明らかに意志の強い光を放つキリリとした黒目がちの瞳が印象的な、白色部分が多いメスのキジトラ猫だった。それからまもなく、スーをそのままひとまわり拡大コピーしたような図体のデカい、でもどこかトボけた雰囲気が憎めない「お兄ちゃん」がやって来て、そして茶色の縞模様が美しい小柄で甘えん坊なオス猫の「チャチャ」と、立て続けに我が家に住み着いた。

 

 スー庭で.jpg

 

猫はどこからか「こいつなら面倒見てくれそうだ」という人間を観察し、目星を付け、徐々に距離を縮めていく。すでに事前に、私へのアピールはあった。自宅に帰ると、いつもスーとお兄ちゃんがお向かいの家の石塀の上に2匹並んで座り、じっとこちらを見つめていた。猫好きにはたまらない光景なので、

私は家に入らず2匹のもとに近づき、身体を撫でてあげていた。

そういうシーンが何度かあり、彼らは「あの人間ならいける」と確信を得たのだろう。タイミングを見計らい、意を決してパイオニア精神豊かなスーが「この家の猫になる!」と、先陣を切ったのだと思う。まったく猫という生き物は・・・なのだ。

 

お兄塀の上.jpg 

兄弟アップ.jpg

 

コイチャが我が家の猫になったのは一昨年の秋。だから我が家の猫歴は約1年と半年で、さほど長くはない。でも我が家の周辺をうろつくコイチャの姿は、もう4年ほど前から見ていた。大きくて丸い潤んだ瞳のキジトラのオス猫だった。

この一帯のノラさんたちは、ことのほかキジトラ種が多い。おそらくノラさんたちの中に圧倒的に強いキジトラのボスがいるのだろう。

サッシを開け放しておくとコイチャはいつのまにか家の中に入ってきて、スーやお兄ちゃんのご飯を食べていた。私や母親の膝の上で何の心配もなく安心しきって眠る我が家の猫たちを「自分もああやってお膝に乗って眠りたい」と訴えるかのように、外からじっと見つめるコイチャの姿があった。

 

そしてある日、コイチャはとうとう行動に出た。私の前に歩いてくると、ゴロンと転がりお腹を見せ、撫でてあげると目をつぶりスリスリし、猫流の「信頼の証」のポーズを示したのだ。そこまでされたら、もう受け入れるしかない。一見するとチャチャにそっくりだが、チャチャより黒みがかった濃いめのキジトラなので「コイチャ」と名付けた。

以来、もう何年も前から我が家の猫であるかのように、コイチャは私たち家族にベッタリと甘えまくった。とにかく抱っこが大好きで、いつも「抱っこして」と前足で私たちの足をひっかきながらせがんだ。そして布団の上で丸くなったり、布団の中に入ってきて人間の体温に触れながら眠ったり、今までの空白を埋めるかのように、今まで欲しくてたまらなかった人間の愛情や温もりをたっぷりと味わうかのように、ご飯もたくさん食べて、コイチャは家猫生活を満喫していた。

さらに家族以外のどの人間に対しても、コイチャはスリスリと近寄り人懐っこく愛情を示すため、我が家を訪ねてくる人全員に愛された。

 

でも、長年の過酷な外猫生活は確実にコイチャの身体を蝕んでいたのだろう。我が家の猫になって半年たった頃、ご飯を食べなくなり痩せてきたので動物病院に連れて行ったところ、猫特有の腎臓病と診断され「何も処置をしなければ、もって一週間」と言われた。

今の動物病院はすぐ治療にかかる項目を一覧にした見積書を作成し、「これだけかかりますが、どうしますか?」と飼い主に問う。うん万円という現実的な金額を見せられると、まず「うっ・・」と立ち止まる。でも「せっかくウチの猫になったんだから、もう少しがんばって生きようね」という気持ちが勝る。

 

すぐに注射を打ち、薬を処方され、しばらく週2回の点滴を実施したところ、コイチャは持ち直し、再びモリモリ食べ、活発に動き、たっぷりと愛情を受ける生活に戻った。それから1年経った今年2月中旬、コイチャは再び食べなくなり痩せてきた。

病院に行くと、今回はかなり深刻だった。腎臓だけでなく歯周病も進み鼻水もひどく、処置は施したが前回とは異なり、明らかに11日、目に見えて弱っていくのがわかった。

体重も日に日に軽くなり、それでもコイチャは毎日の日課の朝のパトロールに出かけて行き、午後に戻るとふらつきながらも階段を登り、私のベッドの上で丸くなって休んでいた。

 

これまで何匹かの猫の最期に立ち会ってきた。それから学んだことは、死期を悟ったら、もうそれ以上の治療はしない。細胞が活動を止める準備をしているところに、嫌がる猫を押さえつけ無理やり口をこじ開けて、薬やご飯を押し込めることは疲弊している猫にとっては大きなストレスであり、それは人間のエゴでしかないと。だからもう、その時まで辛いけど、私たちは死に逝く猫をただ見守っていこうと。

 

「コイチャ、うちに来て幸せだった?もっと抱っこしてあげたかったよ」

脱水から開いたままになったコイチャの目を見ながら、こう話しかけた。

驚いたことに、いつもお兄ちゃんにベッタリの自分本位の甘えん坊のチャチャが、心配そうにコイチャの傍に常に寄り添うようになった。コイチャが箱に入るとチャチャもそこに入り、いっしょに眠っていた。チャチャの優しさに心が震えた。

 

チャチャとコイチャ②.jpg

そして、ふとした隙にコイチャはチャチャの元から音もなく離れ、跡形もなく消えていた。

そして多くの猫がそうだったように、それきり戻って来なかった。

 

もしかしたらコイチャは自分の命の期限を悟り、野良猫の自分がずっと夢見たことを叶えようと、我が家にやってきたのかも知れない。人間に抱っこされ、優しく話しかけられ、たくさん愛情を受け、お腹いっぱいご飯を食べて、温かい布団で眠ること。1年と半年の間、短い期間だったけれどコイチャは我が家で120%、自分の夢を実現したのではなかろうか。夢を叶え、そして潔く逝った。

 

こうやっていつもいつも、私たちは猫という生き物の奥深さに驚かされるのだ。

 

 

 

 

2026
02 / 24
21:00

冬のオリンピック・めくるめく女子フィギュア

223日、日本時間の早朝、2026年ミラノコルティナオリンピックが閉会式を迎えました。

「冬のオリンピックは競技種目も少なく、いまいち盛り上がらない」という意見も聞きますが、自分は冬のオリンピックが好きかもしれません。冬は最も自然が過酷で、ありのままの姿を見せる季節です。

山登りをしていた学生時代、3月上旬に残雪期の雪山に入る春山合宿がありました。3月とはいえ、東北の山はまだまだ深い雪に包まれています。雪も降るし吹雪にも見舞われます。でも、生き物の気配を消し、音をも吸い込む白銀一色の世界は、「無」そのもので本当に美しい。

雪と氷の季節に繰り広げられる冬のオリンピックはどこか素朴で、遊び心を感じます。厳しい冬を乗り越えるために人間が編み出した道具を駆使し、自然といかに巧みに戯れるかを試される祭典ともいえるでしょう。

 

LIVE中継を明け方までテレビにかじりついて見ていた時代もありましたが、だんだんそこまで執着して見なくなったオリンピック。自分で会社を始めてから忙しくなったこともあり、いや、忙しいというより、オンとオフが曖昧になり、気持ちと時間に余裕がなくなったのかもしれないな。

それでも、やはりフィギュアスケートは見ずにいられません。

最古の記憶は小学生だった1970年代、日本はまだフィギュアスケートの黎明期。

渡部絵美選手が日本人として初めて、オリンピックで上位入賞を果たしました。自分も女の子だったので、華やかな衣装を着て、氷の上でジャンプしてくるくる回る姿に「すごおい!きれい!」と単純に興奮したのかもしれません。

 

それから十年余経た1980年代、私と同世代の伊藤みどり選手が、女子選手として世界で初めてトリプルアクセルを成功させ、女子には不可能とされた扉をこじ開けました。しかも高さも飛距離も男子並みという、伊藤選手の豪快なトリプルアクセルジャンプ。本当にすごいジャンプで、あれをリアルタイムで見られたことは幸せです。

そのジャンプをひっさげて迎えた1992年のアルベールビル五輪では、フィギュアスケート競技で日本人初の銀メダル獲得!興奮しました。

 

伊藤選手と同時期に活躍したドイツのカタリナ・ビット選手も、記憶に残る選手です。真っ赤な衣装を着けて、情熱的かつ妖艶にカルメンの曲に乗って氷上を舞う姿は、まさに芸術作品そのもの。ビット選手がライバルの伊藤選手のスケーティングを評し、「ただ飛んで回ってばかりのスケートは芸術じゃない」と酷評したとかしないとか。

 

確かに、伊藤選手が現れる前の女子フィギュアスケートは、見た目の美しさや芸術性が重視されていたのかもしれません。そういう観点からすると、当時の日本人は不利だったのです。

欧米人に比べ背も低く、手足が短く体型もずんぐりしているし、足も太い。「見栄え」からすると、どうしてもスラリとした欧米人に劣ってしまう。

その意味でも、伊藤選手はパイオニアでした。背は140センチ台と小柄だった。ただ、伊藤選手のトレードマークでもある逞しい見事な筋肉質の足から放たれる豪快なジャンプは、欧米選手には真似のできない唯一無二のものでした。女子フィギアの歴史を変えた、偉大なるスケーターです。

 

伊藤選手の実績が日本フィギュアスケートのステージを一気に世界レベルへと引き上げると、その後は様々な個性豊かな選手が登場し、世界で互角に闘うようになりました。そして、荒川静香選手が2006年トリノオリンピックで日本人、アジア人としても初の金メダル獲得。身長もあり、スラリとした荒川選手の肢体としなやかさ、誰もが息を飲む荒川選手にしかできない美しいイナヴァウアー。トゥーランドットの壮大な音楽に乗って芸術性と技術を見事に表現したスケーティング。滑る喜びと、スケートへの愛が一体となった荒川選手のフリーは、心に深く刻まれた決して忘れることができない演技の1つです。

 

その荒川選手に憧れて、スケートを始めたという浅田真央選手。愛らしくて、素晴らしい3回転ジャンプと確かなスケーティングで皆に愛された真央ちゃん。伊藤みどり選手以来、トリプルアクセルを飛ぶ女子スケーターとして、日本中の期待を背負いました。2010年のバンクーバー五輪ではトリプルアクセルを成功させながら、宿敵キム・ヨナ選手に敗れ惜しくも銀メダル。

 

でも、真央ちゃんの神髄は、最後のオリンピックとなった2014年のソチ五輪でしょう。伝説として今も語り継がれる、浅田真央選手のソチのフリー演技。あの時、金メダル候補だった浅田選手はショートで失敗し、フリーは16位からのスタートでした。

 

「さすがの真央ちゃんも、今回はどうにもならないだろう」と諦めムードが漂っていたフリーの演技で、彼女はやってのけました。最初のトリプルアクセルを成功させると、次々と確実に3回転ジャンプを決めていきました。明らかに、いつもとは違う真央ちゃんだった。ものすごい気迫が伝わってきた。

正直、真央ちゃんには、ずっと何か物足りなさを感じていた。技術は完璧。でも、彼女の滑りは音の表現がいまひとつ、欠けていると。そこがキム・ヨナに勝てなかった部分だと。

 

その懸念を覆したのが、ソチのフリーでした。あの日、背水の陣で臨んだ浅田真央選手の試合にかける集中力と鬼気迫る思いが、ラフマニノフの重厚な旋律に乗って、会場全体を覆い尽くしていた。天賦の技術に加え、音を捉えた迫真のスケーティング。

あのタラソワコーチが「真央、すばらしい・・」と絶句した演技。そしてフィニッシュを迎え、天を仰いだ後の、全てを出し尽くした人間だけが見せる満面の笑顔と涙。

結果は、10人ゴボウ抜きの6位入賞。順位やメダルなど問題にならない、それ以上の凄いドラマを見させてもらいました。

 

浅田選手以降、ロシア勢が4回転ジャンプを成功させる時代に入ると、日本は表彰台から遠ざかります。

「女子もいよいよ4回転の時代に入ったか」とも言われました。

でも、ひとりの才能ある選手を数年かけてじっくり育てるとか、成長を見守るというやり方でなく、新しいシーズンが始まるごとに、次から次へと4回転を飛ぶ若い新星を送り込んでくるロシア。

無心に滑っていた小さな女の子が、大きくなるにつれ挫折や様々な葛藤を抱えながら、あらゆる苦難を乗り越え、心身ともに大人の女性へ、真のアスリートへと成長を遂げるその過程を見ることが、フィギュアスケートの醍醐味でもあります。国の威信をかけて、結果重視のロシアはお国柄仕方ないとしても、選手にとっても、こういうやり方はいかがなものか?と感じていた人間は多かったはず。

 

ロシア勢を意識し、4回転に挑戦する選手もいましたが、身体に負担がかかり大切な時期に怪我をして欠場する事態も起きました。そういうなかで迎えた2022年の北京オリンピックにおいて、坂本香織選手が堂々の銅メダルに輝きました。4回転を飛ばずともメダルが取れる!と、多くの選手に勇気を与えたであろう坂本選手。

 

北京の坂本選手のフリー、私も大好きです。曲の雰囲気も、坂本選手にピッタリ合っていた。彼女の持ち味である疾走感、躍動感。そして世間が何と言おうと、自分のスケーティングを貫いた強い意志。

北京のフリーを見ると、涙が出てくる。「見よ!私は私の道を行く」と、高らかに宣言するかのごとく、のびのびとしたスケーティング。フリーダムという言葉がピッタリの、見る者の心に訴えかける、何かを凌駕していくような、心揺さぶる会心の演技でした。フィニッシュの後、「自分が今、表現したいことを全て表現した」と、納得したように小さく頷き、ガッツポーズを決めた坂本選手のカッコよさ。

 

2026年、競技人生を懸け、最終章と決めたミラノコルティナ五輪。出来れば、坂本選手に金メダルを取らせたかった・・。本当に一瞬のタイミングのズレで、メダルの色が変わってしまう。でも、その残酷さもオリンピック。五輪でのミスは、絶対に許されない。取り返しがつかないから。それは坂本選手が一番よくわかっていること。わかっているからこそ、くやしさは並大抵ではないはず。

 

いつもいつも、背中を叩いてリンクへと送り出してくれた中野コーチの腕の中で、思わず泣き出した坂本選手。私もいっしょに泣いていました。この万感の思いは、トップを走り続けたアスリートだけが嚙み締められる、特別な感情です。

坂本選手のダイナミックなスケートをもう見られないと思うと、寂しい。坂本選手はその圧倒的存在感を、みなの目に焼き付けてくれました。

 

「坂本香織選手、偉大なる女王。あなたは最後まで本当に素敵でした。何年たっても、私はあなたを忘れない。きっとまた、あの日の自由に輝やいているあなたに、会いにいくことでしょう」

2026
02 / 14
15:30

2026衆議院選挙当選!

2026衆議院選挙当選!

ご報告が遅くなりましたが、このたび盟友・柏倉ゆうじ君が比例復活当選を果たしました!

おかげ様で十数年ぶりに、衆議院に返り咲くことができました。

応援いただいた皆様、本当にありがとうございました。

私もこの1週間は仕事の合間にお礼行脚と忙しく、ようやく本日パソコンの前に向かうことができました。

 

さて、前回のコラムに書いた「成るか、400年越しの御恩返し」のお話について、

こういうのって、ひと昔前なら「そんなこと、あるわけない、ただの妄想」と切り捨て御免でしたが、

読んだ方からの感想が、意外にも好意的なのは自分でも驚きでした。

 

「あの話、自分の中でストンと腑に落ちました。太古の昔から自分の命は、知らない女性たちが出産で繋いでくれたおかげで今の自分が生まれたことを想うと、感謝の気持ちでいっぱいになります」

と、やはり女性たちは感度がいい。スっと自分の中に入ってくるようです。

 

一方、男性からもレスポンスがありました。その方は歴史好きで、戦国時代に山形市近郊の長谷堂城で繰り広げられた「慶長出羽合戦」を知っていました。

「上杉の直江兼続と最上義光が戦った慶長出羽合戦や長谷堂城は知ってるけど、あの土地が柏倉村だったことは知らなかった。

不思議な話だけど、ロマンがあるしドラマチックだよね。山形に住んだのも、縁があったのかもね」と、けっこう面白がっていた。

 

そう、自分が「山形」というキーワードを意識したのは、小学校5年生の時。今でもハッキリ覚えています。

ある日、隣のクラスの先生が朝の朝礼に来て「小島先生は今日から3日間、山形県に出張となります」と話しました。

すると「山形県って、どこですか?」と質問が飛びます。世界が圧倒的に狭い小学生です。

せいぜい自分の自宅と学校周辺の自転車で回れるくらいのエリアか、もしくは遠足で行った日光や益子に大平山、

遠くて夏に大渋滞を覚悟で海水浴に連れて行ってもらう、茨城県大洗海岸程度しか知らない当時の小学生は「山形県」という未知なる土地が、一体どこにあるのか皆目見当がつきません。

 

「そうね、ずっと北の方、東北地方って呼ばれる雪深い場所」と、隣のクラスの先生は言いました。

私は休み時間になると、廊下に出て窓から北の方を見つめました。

当時の宝木小学校はまだ田んぼに囲まれていたので、廊下の窓から遙かに高原山や那須連山を、眺めることができたのです。

季節は晩秋の頃だったと思います。そのため北の山側の上空には、何とも不穏な鉛色の雲が広がっていました。

 

「山形県・・。あの山の、さらに遠くにある場所」

子供心に、郷愁のような憧れのようなものが、自分の中に芽生えた瞬間でした。

この時は、まさか自分が学生時代を山形県で過ごすことになろうとは、夢にも思いませんでした。

そして、まさか旧柏倉村を本家とする人間の選挙を手伝うことになろうとは!

本当に人の世の縁とは、思いもよらないところでつながる摩訶不思議なものです。

世の中は「縁」と「運」で構築されていると、思う時があります。そして縁と運は、非常に密接な関係があるということです。

 

なにはともあれ、当選にはいくつかのラッキー要素もありました。

それまで「しょせん西日本の党・東日本ではムリ」と、歯牙にもかけられなかった日本維新の会でしたが、高市政権と連立を組んだお陰で政権与党となり、イメージが底上げされました。

さらに、栃木1区は女性候補が立たなかったことも、幸いしました。

もし、若い女性が出ていれば、また結果は違っていたかもしれません。

 

しかし、やはり1番は、柏倉ゆうじの政治への執念と情熱です。

よくぞ10年余、集中力とエネルギーを切らさず耐え忍びました。最後はそこに尽きるでしょう。

さあ、これはゴールではありません。ここからがスタートです。

柏倉ゆうじは私と同世代、長い浪人生活のお陰で、在野で多くの有権者と接し、生の声を聴いてきました。

それを強みとし、私たちの代弁者として、国政で活躍していただくことを強く願います。

 

今後とも、柏倉ゆうじを応援いただきますよう、心からお願い申し上げます。

 

 

2026
02 / 08
20:00

成るか、400年越しの御恩返し

成るか、400年越しの御恩返し

昨日、夜の800をもって、2026年衆議院選挙・柏倉ゆうじ候補遊説隊のマイク納め式が終わりました。

 

思えば初めて選挙活動のお手伝いをしたのは学生時代、たまたま山形県鶴岡市のNHK鶴岡支局でアルバイトしていた時に市議会議員選挙があり、どういう経緯か忘れましたがNHKの労組関係の人に頼まれ、社会党(当時)公認候補のウグイス嬢に駆り出されたことが、選挙との最初の出会いでした。

 

季節はちょうど春爛漫の頃、選挙カーで郊外に繰り出せば、山々はまさに「石走る垂水の上のさわらびの 萌えいずる春になりにけるかも」のごとく、

一面柔らかな新緑に覆われ、遠方には真っ白い雪の綿帽子を被った月山の頂が、春の陽に照らされ光り輝いていました。

そんな景色の中を、候補者の名前を叫びつつ、市内の隅々まで回った最初の選挙活動は、学生の自分とってまことに新鮮で楽しい経験でした。

 

それ以来、社会人になっても時々「ウグイスの経験がある」という実績(?)で、知人や友人に頼まれ、ウグイス嬢を務めさせていただきました。さらに勤め人時代の電話営業の経験から、知らない相手に電話で支援をお願いすることに対し、まったく抵抗が無い体質が重宝され、電話かけのお手伝いもしてきました。

契約を取らなくてよいお願いだけの電話など、本当に楽なのです。

 

柏倉ゆうじ君は私の1歳下で、同世代です。友人の後輩という関係でした。

10年近く前、友人から「人が足りないので、選挙手伝ってよ」と言われ、「できる範囲でね」くらいの軽い気持ちで関わったのがどんどん深みにはまり、今や後援会幹部になっています。

 

柏倉ゆうじ君は陽東中学校の出身なので、コアな応援団は駅東の峰地区の方々が中心です。お父上が宇都宮大学のすぐ近所で、精神科を開業していました。現在はお兄さんが継いでいます。柏倉ゆうじ君も医者ですが、15年ほど前に思うところがあり、政治家を志しました。

 

組織も団体も何もないところからのスタートでしたが一度だけ、栃木2区から立候補し衆議院議員に当選しました。

落選後は拠点を地元の宇都宮に移し、栃木1区から再び衆議院議員をめざし挑戦を続け、今回で5回目の挑戦になります。

 

「医者をやっていればいいのに、どうしてわざわざ政治なぞ?」という、非難めいた意見もこれまで数多く寄せられました。

それでも彼はそういった中傷を物ともせず、浪人中は医者として現場に立ちながら、日々街頭にも立ち、通勤通学の有権者の皆さんや自転車で急ぐ学生さんたちに、深々と頭を垂れて朝の挨拶を続けました。

 

私が本格的に陣営の中に入ってお手伝いを始めた8年前、「柏倉ゆうじ、知ってる?」と聞くと「だれ?知らない」という答えが圧倒的に多かったと思います。

しかし、街頭に立ち続け、毎朝同じ場所、同じ時間に挨拶し、あきらめず選挙に出続けていると、さすがに存在が認められてきたのでしょう。

 

選挙の回数を重ねるうちに、「柏倉ゆうじさん、朝、いつも交差点に立って挨拶しているね」「がんばっているよね」「いつも車から手を振ってあげるんだ」という声が聞かれるようになってきました。

さらには「柏倉先生を見ていると、自分もがんばらなくちゃと思うんです」と、事務所まで訪ねてくる方が出てくるようになりました。

「柏倉ゆうじ」の名前と存在が浸透しつつあることは、年々肌感覚として実感できるようになってきました。

 

でも、ご存じの通り、栃木1区で野党として闘うことは容易ではありません。めざす敵の牙城はあまりに巨大で堅牢です。

しかも、野党第1党でもない身の上だったため、さらに情勢は厳しいものでした。

しかし、長く続けていると、予想もできないような出来事が起こるものです。神様は奇跡を起こしてくれました。

2026年の衆議院選挙において柏倉ゆうじは、はじめて、高市早苗総理大臣を支える連立与党の公認候補として、出馬することができたのです。

数か月前は、誰一人として、このような事態を想定してはいなかったでしょうに。

 

与党としての出馬は、運動員のモチベーションも上げてくれました。「政権与党として、高市さんと共に改革を進めます!」と、堂々と訴えられる誇らしさよ。

街頭演説を聴きに来てくれる方々の人数も増えました。女子高生からは「ゆうじ!」という元気な声援をいただきます。

そして、柏倉ゆうじ君の朝街頭を、高校時代に見てきた子たちが、今や立派な社会人となり「学校に行く途中、自転車から手を振ったら、柏倉さんがいつも手を振り返してくれた。だから応援します」と言ってくれます。

人間が人生のステージをひとつ上げるくらい、それだけ長く活動をしてきたのかと思うと、感慨深いものがあります。

 

40代の初めに政治を志した柏倉ゆうじ君も、今年の春に57歳になります。

人間万事塞翁が馬、人事を尽くして天命を待つ。

本人も運動員も、やれることは全てやり尽くした、勝負をかけた特別な選挙戦でした。すべては今夜、答えが出ます。

 

 

さて、タイトルの「・・・400年越しの御恩返し」とは一体なんぞや?と思われる方もいらっしゃると思います。

ここからオプション、あくまで私の寝言だと思って聞いていただきたい。

 

いつぞや、「前世が視える」という人が私に言いました。

 

・視える人 「あなた、戦国時代は越後の上杉家の重臣で、山形県あたりで切腹した武士ですね」

・私 「はっ?山形県に住んでいたことはあるけど、ご先祖は栃木県ですよ」

・視える人 「山形に住んだということは、その土地と因縁が深いということなのよ」

・私 「では何という戦いで切腹したのかね?」

・視える人 「関ケ原・・かな」

 

「それは絶対にないでしょう」と思いました。だって、関が原は西国。山形とは、いかようにもつながらない。

でも、気になったので調べてみました。すると、驚きの発見がありました。

戦国時代、山形市の近隣にあった長谷堂城という場所で「北の関が原」と言われる慶長出羽合戦という大きな戦が起きていたのです。

軍師・直江兼続が指揮を執る上杉景勝と最上義光の戦いで、豊臣(西軍)vs 徳川(東軍)の代理戦争の体を成していました。

数に勝る上杉勢絶対有利のなか、結局、東軍の最上勢が勝利しました。そして、長谷堂城のすぐ近所に、柏倉家のルーツである柏倉村(現山形市)がありました。

柏倉家は、そこのお寺さんを本家とする家系なのです。

柏倉ゆうじ君の本家が、山形市の寺だということは聞いていました。

しかし、そうつながるとは思わなんだ・・。

 

そこで、柏倉ゆうじ君に思い切って聞いてみた。

 

・私 「先生の本家のお寺の近くで、戦国時代に長谷堂城の戦があったよね」

・柏倉君 「ありましたよ!子供の時におばあちゃんの家に遊びに行くと、長谷堂城跡によく行きました。

     そんなマニアックな話、恩田さん、よく知ってますね」

・私 「私の寝言として聞いてほしいけど、私の前世はそこで切腹した上杉家の武士だって言われた。

    もしかして、私は先生のご先祖のお寺で弔ってもらったのかもしれない」

・柏倉君 「恩田さん!前世云々は置いといても、うちの寺は長谷堂の戦いで戦死した武士たちを、上杉も最上も分け隔てなく、       両軍の戦死者を弔ったことで、伊達政宗から感謝され、恩賞として伊達家より家紋を拝受したと聞いています」

・私 「ありゃりゃ、意外に話がつながる・・・」

 

というわけで、私の中に1つのロマンチックな物語が誕生しました。

昔むかしの戦国の世、山形県の柏倉家のご先祖様に弔ってもらったその御恩返しこそ、私が柏倉ゆうじを選挙で勝たせることなのだと!

詭弁でも身勝手な妄想でも、何でもよいのです。でも戦いに大義があると無いとでは、心持がまったく変わります。

400年越しの柏倉家に対する私の御恩返しが叶うかどうか、今夜決まります。

 

 

 

 

 

2026
01 / 18
08:00

たとえ明日世界が滅ぼうとも…

 

たとえ明日世界が滅ぼうとも、今日僕はリンゴの木を植える」

これは社会の世界史の授業で必ず学ぶ人物、16世紀に宗教改革を推進したドイツの神学者、マルティン・ルターの言葉だそうです。

 

先日、宇都宮市のコミュニティFM・ミヤラジの「乱世を生き抜く宮商人(ミヤアキビト)のチカラ」に出演させていただき、事前に送られてきた「31の質問状」の中に「座右の銘 または 大切にしているワンフレーズは?」という質問がありました。それに対し、3つ記入し、そのうち1つがマルティン・ルターの言葉でした。

 

さて、自分がこのフレーズを大切にしている理由ですが、何のことはない、これはマルティン・ルターでなく恩田澄江の言葉だからです。

 

あれは、いつぞやの何かの選挙前のこと。某地方議員を激励するパーティー会場に、某国会議員の先生が応援に駆け付けました。そこで国会議員の先生が応援演説の冒頭で「私は彼の日々の活動を見ていると、-たとえ明日世界が滅ぼうとも、今日僕はリンゴの木を植える-という言葉が浮かびます!」と、かましたのです。それを聞いて、自分は思わず「へっ?」と思いました。「それは、私のセリフだよ!」とね。

 

話はさらにだいぶさかのぼり、まだ20歳の恋多き乙女だった頃、カワシマ君という彼氏がおりました。サークルの1つ学年が上の先輩で、高校までまったく浮いた話の無かった自分にとって、初めて「彼氏」と呼べる存在でした。もう嬉しくて大好きで、当時はカワシマ君のために夕飯のメニューを考え、買い物をして、毎日キッチン(とはほど遠い、築25年の木造アパートの台所)に立っていそいそと手料理を作る、それがすべてのような日常だった気がします。

 

卒業後、だいぶ時が経ってから学生時代の友人の家に久々に遊びに行った際、思い出話に花が咲くなかで、友人の口からこんな話が出ました。

「オンダがカワシマ君のためにがんばって手料理を作っていた頃、・・たとえ明日世界が滅ぼうとも、私はカワシマ君のために料理を作る!・・なーんて言ってた。覚えてる?」と、カラカラ笑うのです。

「そんなコト、言ったのかな?」と、自分はまったく覚えがありません。

 

その場はそれで終わりましたが、それから数年後に例の国会議員の応援演説で、単語は違えども同じフレーズを聞くことになり「いったいこれは誰の言葉なんだ?」と調べたところ、マルティン・ルターの言葉でした。

 

マルティン・ルター、500年前に生きた人です。一般的に知られていることは16世紀、カトリック教会が免罪符なるものを発行し「お金を払ってこれを購入すれば犯した罪は許される」と、一般庶民たちに売り出しました。ルターはこういったカトリック教会の行為を「腐敗だ」と強く非難し、ここからヨーロッパ全土に広がる宗教改革の火ぶたが切られます。

 

「たとえ明日世界が滅ぼうとも、今日僕はリンゴの木を植える」ルターはどんな想いで、どういった意図でこの言葉を残したのでしょう。最終的にルターはローマカトリック教会から破門され、新教(プロテスタント)を立ち上げます。カトリックが支配的な世界において、神の代理人であるローマ教皇から破門を言い渡されることは、当時の人々にとっては生きる依り代を失うことであり、自分が立っていた大地が崩れ、奈落の底へ付き落とされる思いだったことでしょう。まさしく「世界が滅ぶ」に等しい状況です。

 

それでもルターはリンゴの木を植え続けます。リンゴとは、エデンの園でアダムとイブが口にした禁断の果実、知恵の実です。旧約聖書ではリンゴを口にした二人はエデンの園から追放され、ここから人類の歴史がスタートします。

 

この言葉は、たとえカトリック教会に破門されても自分の信じる世界を自ら創造していくという、ルターの覚悟の表われなのかもしれません。そして、その意志がある限り世界は決して滅ばない、という信念。

 

ひるがえって、自分がカワシマ君のために木造ボロアパートの台所で料理を作っていたことと、世界史に残るルターの功績を同じ土俵で論じることなど論外です。でも、意外と根っこは同じなのかもしれない。たとえアパートの外側で、ゴオーっと音を立てて世界が崩れ去ったとしても、ルターがリンゴの木を植えるように、なんぴとたりとも、恩田澄江が好きな人のためにご飯を作ることを邪魔することはできない。

 

国や時代や立場が違えども人間の考えることは、たいして変わらないものかもしれません。

 

 

 

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