有限会社ユーアンドエス 代表取締役/ライター 恩田すみえのホームページ

コラム

2025
10 / 13
14:45

高市早苗氏の総裁就任を受け、日本の国土を想う 

高市早苗氏の総裁就任を受け、日本の国土を想う 

  先日、自民党総裁に高市早苗氏が就任しました。女性初であることも喜ばしいですが「景色を変える」という言葉に大きく期待しております。自分の中では、小泉進次郎氏の就任は絶対にあってはならないことでした。 

 

 彼は環境大臣だった2020年、国立公園内における再生可能エネルギー施設設置の規制緩和を促進する必要性を表明しました。それを受けて、2022年の自然公園法施工規則改正に伴い太陽光、風力、地熱などの再生可能エネルギーの設置が許可されやすくなり、結果として現在問題となっている釧路湿原のメガソーラーなどのプロジェクトの基盤が整備されたと言われています。

 

  覆水盆に戻らず…という言葉が示すように、失ったものを再生することはほぼ不可能です。この国を構成する大切な要素、土地や自然や精神を断固として守らなければならないと思います。これらは三つ巴ですから一つが崩れると連鎖的に他の要素も崩れ始め、やがて国家としての体を成さなくなります。

 

 もう物心ついた時から誰に教わることもなく、自然とのバランスを考えず経済活動を優先するこの国の行く末に「何か違う」と本能的な違和感を抱いていました。自分はこれらの問題に関しては感情的です。深く悲しみ憤ります。その部分は非常に女性的であり、逆に女性性を大いに出して良いと思っています。まずは己の違和感や感情を原点としそこを大切にしながら、これからどうするべきか、知恵を出し合い考えるのです。それゆえ、これからの時代を担う女性リーダーの誕生を嬉しく思います。

 

 

 

2025
10 / 04
14:45

日米台国際桜交流会と安倍昭恵さん

日米台国際桜交流会と安倍昭恵さん

知人から「安倍昭恵夫人が来るから参加して」とお誘いがあり、物見遊山でヒョコヒョコ上野の精養軒まで「日米台国際桜フォーラム」という催しに参加してきました。桜という名称と名誉会長である昭恵夫人のフワっとしたオーラでカモフラージュしつつ対中国に向けて日米台の関係強化を訴える、なかなか硬派な催しでした。

 

 

昭和天皇は皇太子時代の1923(大正12)に台湾を訪問され、現地で桜やガジュマルなどを記念植樹されています。その桜の苗木の日本里帰りを実現させようと、令和に入ると台湾財界や文化界の著名有志が中心となり、東京と台北の地で「苗木目録寄贈式」が日台関係者によって開催されたとか。さらに2024年に「一般財団法人 日台国際桜交流会」という団体を設立し、「里帰りした桜の苗木を皇室ゆかりの地や神社仏閣等に植樹しながら、世界各国との親睦を深め文化交流及び経済交流の輪を広めることを目的としている」とパンフレットには記されていました。他方、パンフレットに記載されてはいませんが、文化や経済と合わせ台湾と日本の政治的、軍事的結びつきもより強化していきましょうという意図が自ずと透けて見えてきます。

 

会の名誉会長で昨年95歳で亡くなった安部元総理の母・洋子さんの跡を受け、昭恵さんがその任を引き継いだそうです。今回、生の昭恵さんを初めて間近から眺め肉声を聞きました。安倍元総理がご存命中は首相夫人らしからぬ自由な言動が何かと物議をかもしましたが、ひとりの人間として女性として見た場合、素の昭恵さんは邪気というものを感じさせない実に可愛らしい女性でした。

 

昭恵さんは挨拶の途中で安倍元総理に話が及ぶと、声を詰まらせ涙声になっていました。地元の支援者たちから地盤を引き継いで政界進出をという声も多かったようですが、彼女自身は「自分は政治家には向かない。政治とは異なる立場で支えていただいた皆様に感謝しつつ、自分に出来ることをせいいっぱいやっていく」と決意を語っていました。昭恵さんだけでなく、このフォーラムに登壇した方々は等しく安倍元総理を心から偲んでいる様子でした。前台湾駐日代表の謝氏も米国の政治学者であるエルドリッチ氏も、世界が難局を迎えるなかでトランプ大統領やプーチン大統領とも等しくコミュニケーションを取れた政治家・安倍晋三を失ったことの大きな損失を嘆き、人間・安倍晋三の大らかな人柄に想いを馳せていました。

 

 私自身は自民党の絶対的な支持者ではありません。ただ、自民党の議員のなかで安倍元総理だけは何かが違って見えていました。安倍政権への賛否両論はあります。特に政治家はすべて結果で判断されてしまいますが、その時々に誠意と情熱をもって物事を判断したのか否かは各々の政治家によると思います。少なくとも安倍元総理の中に日本国に対する誠意と情熱の灯の揺らぎを認めていたのは、私だけではないと思います。

 

 

彼が凶弾に倒れた2022年夏の参院選、あの日の2週間前に宇都宮二荒山神社の鳥居の前で安倍元総理による応援演説があり、私も見に行きました。総理の座を降りた安倍さんは「これからは自由に色々発信していきたい」と清々とした表情で満面の笑みをたたえ、元気に語っていました。それから間もなくのことです。信じがたい突然の訃報を聞き、真っ先に心をよぎったのは「自民党の良心が亡くなった」という思いでした。

 

 

ファーストレディ時代、一挙手一投足がマスコミのやり玉にあげられる昭恵さんを、安倍元総理は身を挺してかばっていました。たとえ世界を敵にまわしても、自分にとって一番大切な人を守ろうとする気概の無い男性に、国家を守れるはずがありません。昭恵さんは安倍元総理にとって、かけがえのない存在だったことでしょう。

 

 

こういうことを言っていると「なら、世界を敵にまわしてもお前を守ってくれる男性はいるのか」とやぶへびになるので、お二人の話はこのあたりで終わりにするとしましょうか。

 

2025
09 / 24
12:45

がん患者と共に

がん患者と共に生きる

 先日、友人である宇都宮市議の茂木ゆかりさんに誘われて、「リレー・フォー・ライフ・ジャパン2025とちぎ」に行ってきました。茂木市議から大会名を聞いた時は「??」という感じで、「夜、壬生の陸上競技場で夜通し歩いていますから、いっしょに歩きに来てください」という言葉だけが頭に残り、深くも考えず「2時間くらいなら付き合うよ」と軽く承諾しました。競技場へ着いたのが20時半くらいで、そこで説明を受けて初めて大会の目的と意味を知った次第です。

 

 

1985年、一人の医師がトラックを24時間走り続け、アメリカ対がん協会への寄付を募りました。 「がん患者は24時間、がんと向き合っている」という想いを共有し支援するためでした。ともに歩き、 語らうことで生きる勇気と希望を生み出したいというこの活動を代表するイベントは、2024年現在において、世界36か国で活動、約1,800か所で開催され、年間寄付は約146億円にのぼります」(リレー・フォー・ライフHPより引用)

 

 

思えば、自分も7年前に父親を癌で亡くしています。79歳でした。まず黄疸が出て、かかりつけの医師からすぐに検査するよう言われ、結果はすい臓癌のステージ4で余命は半年と告知されました。それは本人と家族にとってまさに青天霹靂で、ある程度の知識があればすい臓癌が何を意味するか理解できます。医師に今後の治療をどうするかを聞かれ、私たちは「何もしない」ことを選択しました。抗がん剤や放射線治療をせずに自宅で過ごすことです。しかし本人は「奇跡が起きることもある」と考えていたのか、意外にも楽観的でした。たぶん、亡くなる数時間前までその希望は本人の中にあったと思います。

 

癌が発覚してからも特に痩せもせず痛みもなく食欲も旺盛で「もしかしたら誤診か?」と周囲が思うほど、元気そのものでした。 「また行けるようになった時のために」と、趣味の釣り道具の整備も怠りませんでした。ごく普通に穏やかな日常生活を送っていましたが、がん告知から5ヵ月ほど経った頃、何の前触れもなく吐血したのです。その日を境に、父親の身体は確実に最後の日へ向けて舵を切ったように思います。入退院を繰り返すようになり、病院から戻る度に確実に身体は変化していました。退院すると「家はいいなぁ」と嬉しそうにはしゃぎ、大好きなラーメンを平らげはしますが身体が疲れやすく重くなったようで、手足が思うように動かないのです。

 

亡くなる一か月ほど前、7月の梅雨の晴れ間の爽やかな青空が広がった日、私の運転で奥日光へドライブに行きました。湯元湖畔の駐車場に車を止めましたが、駐車場から湖畔までの50mを歩くことができず、車のバックドアを開けそこに座らせました。それでも湯ノ湖から吹く風を全身に浴びながら「山は気持ちいいなあ」と、ご機嫌な様子でした。

 

8月に入り最後の入院の時、担当の医師から長くて今月いっぱいだと伝えられ、在宅医療を勧められました。家に連れ帰る際、病室を後にする時、ベッド脇の棚に閉まってあった糖尿病のインスリンの注射類を私と母親が「もうこれを使うことはない」と粗雑に手提げ袋に放り投げると、驚いたことに父親が「そのうちまた使うんだから、ちゃんと保管しておけ」と怒るのです。「この人はまだ諦めていない」と、胸が締め付けられました。

 

もう食欲はほとんどなく、トイレに行くのもやっとという状態でしたが、「何とかもう一度、外の世界を見せたい」と猛暑の合間の曇りの日を狙い、「お父さん、今日は涼しいから鮎を食べに行こう。車まで歩ける?」と聞くと、父親は嬉しそうに「おお、行きたいな」と答えました、おむつを履かせ、自分で杖を突きながらやっとの思いで私の隣、いつもの助手席に座ってくれました。喜連川の道の駅の鮎小屋で「旨い、連れて来てくれてありがとう」と言いながら鮎の塩焼きを1匹食べたのが、最後の食事になりました。

 

癌という病が残酷なのは、最終盤になると1日ごとに身体のあちこちの組織が順番に機能を停止していく様を、本人と家族が自覚せざるを得ないことでしょう。昨日まで歩けたのに、今日はもうベッドから起き上がれないのです。幸いなことは、すい臓癌特有の痛みがまったく出なかったことです。家に戻って一週間後の2018816日の送り盆の日、その日は夕立があり雨上がりの空の雲は夕日に照らされ、空一面が柔らかなオレンジ色に染まっていました。そしてそれは下界の世界全体を同じような優しいオレンジ色で包みこみ、もし極楽浄土があるのならこんな色彩なのだろうかと思ったことを覚えています。その晩、今までとはケタ違いの大量の吐血をし、父親は初めて悔しそうに「なんだよ、これで終わりなのか」という言葉を漏らし、それから5時間後に息を引き取りました。

 

癌という病を抱えながらも、亡くなる直前まで父親はうろたえもせず周囲に当たることもなく、希望を持っていつもの日常をいつもの心持ちのまま過ごしました。そういった最後の姿を私たちに示してくれた父親を、娘として誇りに思います。

 

 

リレーフォーライフ茂木議員と.jpg

到着したら降っていた雨も上がり、傘をささずに歩くことができました。茂木ゆかり宇都宮市議と共に。30代の若い女性である茂木市議は活発に地域を巡りながら、市民の声に耳を傾けています。

 

 

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暗闇に浮かび上る「HOPE」の文字。がん患者さんやその家族、支援者さんやご遺族の方々がそれぞれの「想い」を書き留めた袋にLEDを入れて、トラックの周囲や観覧席をライトアップしています。

 

 

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大会終了後、LEDの入った袋は毎年鹿沼市の薬王寺にてお焚き上げをし、皆さんのメッセージを空へと届けるそうです。

 

2025
09 / 17
16:45

髪結いの亭主

髪結いの亭主

 

前出の「髪結い」つながりで、もう一遍。

 

パトリス・ルコントというフランス人の映画監督がいます。彼の出世作『髪結いの亭主』を観たのは、20代半ばの頃でしょうか。映画には、働き者でとびっきり美人の「マチルド」という名の髪結いの女性と、小さい頃から髪結いと結婚することが夢だった男が登場します。男はマチルドに一目惚れ、マチルドも男の求婚を受け入れ二人は結婚します。

 

髪結いの亭主とは今でいう‶ヒモ男″の代名詞ですが、この映画の男がまさにそれで、客の髪を切り髭を剃る美しいマチルドの姿を眺めながら、ひがな一日、店の待合のソファに座って過ごしていました。それでもマチルドは男に愛想を尽かすこともなく、彼女はこのぐうたら亭主を心底愛したのです。

 

そんな折、男はふっと寂しそうに彼を見つめるマチルドの眼差しを認めます。彼女の感情に、何か変化が起きているようでした。ある暴風雨の晩、店の窓から外をじっと見つめていたマチルドは、突然雨の中に飛び出して行きました。そして橋のたもとに着くと、増水した川の濁流の中へ身を投げたのです。

 

マチルドは男に遺書を残していました。聡明な彼女は人の情の儚さ、移ろいやすさを見抜いていたのです。自分の若さも美しさも、決して永遠でないことを理解していたに違いありません。やがて自分の色香が衰え、愛する人の視線が我が身をすり抜け、他の若く美しい娘たちに移っていくことを思うと、彼女は気も狂わんばかりの絶望に苛まれたことでしょう。

 

そこで彼女がとった手段は、今の自分の姿を「永遠」に留めることでした。刻一刻と変化する自身の実体を抹殺することで、愛する人の脳裏に彼女の一番美しい姿と思い出だけを刻み付けたのです。そうすれば、男が自分の幻影から逃れられないことを、マチルドは知っていました。人は手に触れられないもの、掴めそうで掴めないものに妙に執着する生きものです。

 

「愛するあなた、だから私は先に逝きます…」

 

遺書の最後は、こんなふうに結ばれていた記憶があります。当時まだ20代で恋愛真っただ中だった自分にとって、マチルドの選択は衝撃でした。若い時の忘れられない1本です。

 

 

2025
09 / 17
16:30

髪の毛だけは手抜きできない

髪の毛だけは手抜きできない

 いくつになっても女性である以上、ある程度‶見た目“を気にするし、ある程度はお金をかけます。(そうしているつもりですが…)しかし年齢が上がるにつれ、お金をかける部分が若い時と違ってきました。

 

 

服については、平日は倉庫で荷物と格闘しているため作業着で済んでしまうので、ほとんど買わなくなりました。人前に出る時は、まあ体のラインが上手く隠れてシンプルなものだとユニクロでいいかと。サイズも豊富だしデザインも悪くない。化粧品も若い頃はあれこれ勧められるまま使ってはみたけれど、ほぼ自分の肌に合うメーカーも色味も分かったし、余計なものは買わなくなりました。

 

でも髪の毛にかけるお金だけは、年々上がってきています。まず白髪です。何とかかろうじてマニキュアだけで頑張っていますが以前は2か月もったのに、今やひと月に一度は染めないといけません。そしてカットとパーマ。昔からショートヘアで、さらに髪質が細く柔らかいのでパーマをかけてボリュームを出しています。ショートヘアだとカットをマメにせねばならず、パーマも2か月半に1度のペースでかけないと、こしが無いためペショっと情けないスタイルになってしまう。服や化粧はごまかせても髪の毛だけは手を抜くと、どうしても老け込んで見えてしまいます。

 

ですから腕の良い美容室のオーナーは、何十年と通い続ける顧客の髪にハサミを入れながら、その指先が動かなくなるまで顧客と共に歳を取っていくわけです。「好きなことを仕事にして、身体に限界が来るまでその道を全うできるならば、それはとても幸せなことですよね」と、私が27歳の時から30年間通い続ける宇都宮市赤門通りの名店「SLEEK」のオーナーさんは言いました。こちらのオーナーさんとは2歳違いの同世代。30年間、一度も他の店に浮気したことはありません。難しいショートのパーマヘアを、いつも納得のスタイルに仕上げてくれます。今はスタッフを抱えず、一人で自分のペースで仕事をされてるので、予約は半年先までいっぱいです。

 

いつだったか、江戸時代から現代に至るまで時代の変遷や好不況の波の中、変わらずニーズのあった職業が「髪結い」であるという記事を読んだ記憶があります。やはりどんな状況下でも髪の毛だけは整えたいしプロに任せたいというのは、時代を超えて普遍的な人間の性なのかもしれません。

 

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長年SLEEKで修業を積んだ藤谷くんが2024年に独立し、塩谷郡塩谷町に美容室「chill」を出店しました。奥様の実家の敷地内に可愛いらしいお店が建っています。私がSLEEKに通い始めた頃、藤谷くんもSLEEKで新米の美容師として働き始めました。いわば同期のような存在です。

 

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驚くべきはその立地。四方田んぼに囲まれ、塩谷町らしいのどかさに圧倒されます。カットしてもらいながら、窓の外に広がる四季折々の風景に癒されます。もちろんSLEEKで鍛えただけあり、腕はたしか。宇都宮はもちろん、県外からも馴染みのお客さんが訪れます。

 

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