コラム
初めて「ミヤラジ」に出た話
年が明けた1月6日の21:00から、宇都宮市のコミュニティFM・ミヤラジの番組「乱世を生き抜く宮商人(ミヤアキビト)のチカラ」に出演しました。
そもそものきっかけは「宇都宮市100人カイギ」というイベントに参加したことから始まります。これはどういったテーマの集まりかというと、毎月1回の開催で、毎回肩書や仕事を問わない5人が登壇し、10分間で自身について語る・・というもの。全20回開催し、登壇者が100人になったら終了するようです。その4回目に登壇したことで、100人カイギの運営代表の山口さんから紹介を受け、ミヤラジ出演が実現したという経緯(いきさつ)です。北関東一の都市とはいえ宇都宮は狭いので、何かの会合で一緒になった人の友達が自分と共通の友達だったり、良くも悪くも、噂や話もすぐに回ります。(それが怖いところでもある)
自分はお酒が飲めないせいあり(意外だと驚かれますが、アルコール分解酵素を持たない家系)、積極的に飲み会に参加することも少なく、会合や集まりやイベントにあまり関わって来なかった人間で、ようやく最近「多少経験を積んだし、もうそろそろ表に出て発言してみようか」と重い腰を上げた次第。
でも、ラジオに出るってこと、友人たちに言えなかった・・。電波に乗せて自分の声を聴かせるのって、かなり抵抗がありましたね。それでも何人かの友人から放送中にメッセージが届き、メチャクチャ嬉しかったです。1時間の持ち時間ですが、曲が2曲入るので、語りは実質40分ほど。リクエストは中森明菜の「DESIRE‐情熱‐」とPSY.S(サイズ)の「Lemonの勇気」にしました。
10代に頃、私の押しは聖子ちゃんだった。今さらながら、40年経ってもま色褪せない明菜の楽曲と実力の凄さが分かってきた。PSY.Sは17歳の頃、アニメ「TO‐Y(トーイ)」の主題歌だった「Lemonの勇気」を聞いて「これだ!」と痺れた。シンセサイザーのピコピコした電子音の中にもどこか懐かしさ漂う松浦さんが作る曲、抽象的で詩的な歌詞、それを凛とした揺るぎないチャカのパワフルなボイスが歌い上げる。この三つの要素が噛み合うことで、独自の世界観を形成していたのがPSY.Sだったと思う。
当日はパーソナリティのルーさんこと、津田さんに上手にエスコートしてもらい、1時間があっという間でした。出演前に31個の質問状がメールで届いたので、ライターという仕事柄、詳細に掘り下げて書いてみました。それら31個の質問に対する回答を、番組の冒頭に一通り発表するんですね。
せっかくなので、日々私が何を考えて仕事をしているか、質問の回答を公開します。
01 お名前は?
恩田 澄江(おんだ すみえ)
02 親しい人からのニックネームは?
スミエちゃん
オンダ
03 生年月日は?(あるいは、生まれ年は?)
1968年(S43)4月
04 出身地は?(あるいは出身校は?)
宇都宮市生まれ(宇都宮北高卒)
05 中学や高校の頃、何に熱中してた?
中高時代はバスケットボール、大学でワンダーフォーゲル
06 今、何に熱中していますか?
仕事。既存のシステムが変化したり崩壊するなかで、従来の方法論が通用しなくなった現在、どういう思考で世界と向き合い、自分と自分の周囲の人たちが気分良く生き延びられるかが大前提で、そのために自分の立場で何ができるかを考えるのに熱中というより集中しています。
07 今後、やりたいことは?(プライベートで)
時間的になかなか難しいですが、漫画を読みたい。最近の作家さんの漫画は私が読んでいた頃の漫画とはぜんぜん違う切り口とストーリーだし深みもある。
08 日常のルーティン または 心がけていることは?
遅ればせながら、昨年秋にようやくホームページを立ち上げたので、徒然なるままに日々感じたことをコラムに書いて小まめに更新する。
09 尊敬する または 目標とする経営者は?
特にいません。正解は無いと思っているので、全ては自分次第。
10 座右の銘 または 大切にしているワンフレーズは?
「人生を内側から生きる」(人類学者の中沢新一氏の著書より)
「自分が世界を支える」(脳科学者の茂木健一郎氏の著書より)
「たとえ明日世界が滅ぼうとも、今日僕はリンゴの木を植える」(宗教改革のマルティン・ルター)
11 貴社の社名は?
有限会社ユーアンドエス
12 役職は?
代表取締役
13 どんな事業ですか?
隙間産業と呼ばれるジャンルに特化しています。
発送代行業・内職作業請負・出張にて荷物の仕分け、ピッキング作業請負など
恩田澄江個人のライフワークとしてライター業(以前は作文の添削などもやっていた)
14 貴社の強みは何ですか?
ふだんは何をやっているかよく分からない会社だが「いざ、鎌倉!」の掛け声ひとつで、九ノ一のごとく有能な女性スタッフが四方から集結し機動力を発揮、さまざまが難題を解決してきた実績があります。
15 SDGs、または地域貢献に帰する貴社の取り組みは?
弊社の作業場に地域の高齢女性(60代~80代)が集まり、おしゃべりしながら手を動かし楽しく内職作業に取り組んでいます。中にはご主人を亡くし、一人暮らしの女性もいます。そういった女性たちにコミュニケーションの場と、些少ではありますが年金+αの収入の場を提供しております。ある意味、コミュニティセンターとしての機能を果たす現場でもあり、弊社の存在自体が社会貢献であると自負しております。
16 今、貴社にとって最大のリスクはなんですか?
紙媒体のDMが減り、企業がメールやLINEで広告やDMを打つようになっていること。この流れは止まらない。
17 今、貴社にとって最大のチャンスはなんですか?
弊社は完全に旧式のシステムに乗ったアナログ事業を続けてきましたが、このシステムがほぼ終わろうとしています。しかし、アナログは決してゼロにはなりません。どこかに隙間は必ず出来ます。ここまで踏ん張ってきたゆえに構築されたネットワークを活用し、弊社の女性たちが取り組めるような、これまでとは形態を変えたアナログ業務に切り替えを図っております。
18 今、貴社に必要なものは(お金以外)何ですか?
やはり何と言ってもお金がですが(笑)、それ以外では秘書みたいな人材。そうすれば私がもう少し広範囲に動くことができます。でも、今は雇えるだけの経費が出ないのが現実。
19 今後、貴社が取り組みたいことは何ですか?
女性のコミュニケーション力や器用さを活かした事業を構築したい。
20 今の仕事に就いたきっかけは?
サラリーマン時代、その時務めていた会社の社長さんが事業をたたむことを決め、継続できる部門を引き継いで起業しました。
21 今の仕事で最も充実を感じる瞬間は?
スタッフの皆さんがお互いをフォローしながら、楽しそうに仕事をする空間が生み出す穏やかな空気を感じる時。
クライアントさんに「恩田さんに救われたよ」と言われる時。
22 今の仕事で最も大切にしていることは?
和を以て貴しと為す(わをもってたっとしとなす)
23 今の仕事でピンチだった時、助けてくれたのは何(誰)ですか?
金銭的なことでは身内、仕事においては若い頃から共に仕事をしてきた取引先の営業担当の方。新しい事業を弊社に振ってくれました。そのお陰で今があります。
24 「鳴かぬなら?」(○○○○○○ほととぎす)
鳴かせてみせようとまでのおこがましさはないが、鳴くまで待ってもいられない。だから鳴かせてみせようというマウントは取らずに、傍らに寄り添いつつ自然に確実に距離を縮めていくよう努める。
25 宇都宮の好きなところは?
ほどよく都会、ほどよく田舎。バランスが良い。
26 宇都宮の「ここ変えたほうがいいんじゃないかな」なところは?
駅東が工業団地、マンション群を抱える近代都市的な風景なら、駅西側はガラっと雰囲気を変えて歴史や文化、アート的側面をアピールできる街づくりを期待したい。
27 最近、腹が立ったことは?
同居する母親と会話すると訳がわからんことを言うので腹が立つことが多くなった。実にくだらないことがきっかけで言い合いになるが、そこは親子なので一過性で終わります。
28 最近、泣きたいくらい悲しかったことは?
起業して以来、ずっといっしょに仕事をしてきたスタッフさんの1人が急逝したこと。長くいるスタッフは70歳前後になり、確実に毎年歳を取っているのですが、残った者たちは出来ることを可能な限りがんばろうと誓い合いました。
29 最近、笑ったことは?
しょっちゅう笑っています。
30 最近、嬉しかったことは?
獣医さんからあと一週間しかもたないかも…と言われた猫(保護猫4匹おります)が復活し、元気になったこと。世の中の猫たちが丸くなって穏やかに眠れる平和な世界が続きますように。
31 今、一番感謝をしたい人は?そしてその人にメッセージを。
いつも私のサウンドバックになってくれて、私のやり場のないストレスを全て受け止め、さっさと流し一晩寝れば全て忘れてくれる母親に心から感謝し、いつもは決して口にしないが「お母さん、いつもありがとう。本当は感謝しているよ。お母さんの娘で本当に助かりました」の言葉を送ります。
地震
今年も年明けに、中国地方で大きな地震がありました。定期的にやってくるので、「また今年も来たか」と、いけないことなのでしょうが地震慣れしている自分がいます。
あの東日本大震災からまもなく15年が過ぎようとしています。早いものです。「生きている間に、こんな悲惨な光景を見るなんて・・」と、当時は津波の映像をテレビで見ながら涙が止まりませんでした。東北地方は学生時代を過ごした自分の第二の故郷であり、それらの地域が真っ黒な水に飲み込まれ、その後発生した火災によって焼き尽くされていく様を、自分の身が切られるような思いで、ただただ見ているしかありませんでした。ラジオから「浜辺に300体ほどの遺体が打ち上られているという情報が・・」という放送が流れ、「そんなの映画の中の話じゃないの?」と耳を疑いました。
雪も降っていた。3月だというのに、あの日はものすごい寒い日で、高台に避難した人たちが自分の家や思い出が、いとも簡単に押し流されていくのを黙って見守ることしかできず、その震える身体の上に白い雪が積もっていく。こんなことってあるのかな?この人たちがこんな目に合わなければいけないほど、いったい何をしたというのだろう?・・と、神や仏は何やってんだ!と怒りさえも覚えました。とにかく、まずは神様この雪を止ませてください。冷たい水に濡れて凍える東北の人たちを、少しでも太陽の光で温めてくださいと、祈るしかありませんでした。
震災から少し経って、平成天皇ご夫妻、今の上皇様と上皇后さまが二人で被災地を訪問された際、現地に到着したお二人は、まず海に向かって深々と頭を下げました。これは普通に考えれば、海に流された人たちに向けての慰霊と鎮魂の意味だったのでしょう。一方で、日本国の天皇として、人知を超えた力を持つ「自然」という存在に対し、畏敬の念と祈りを示されたのだろうと、自分は直感的に感じました。
これほど多くの人命と生活を奪った憎き海に対してさえも、日本の天皇は深く頭を垂れるのです。「これが天皇なんだ」と、不思議な感動を覚えたシーンでもありました。天皇の真の存在意義は「祈り」であると、聞いたことがあります。悲しみや憎悪、妬み、罵詈雑言が渦巻く娑婆の世界で、天皇だけは祈りを止めないのです。あらゆる災難災厄を被り絶望の淵に立たされた時、唯一人間にできることは祈ること、確かにそれだけかもしれないと、震災の惨状を見ながらふと、思ったりもしました。
2000年に刊行された村上春樹の小説に「神の子供たちはみな踊る」という短編集があります。
1995年1月17日の早朝に阪神・淡路大震災が起き、神戸の町が大きく被災しました。何かを感じたのか、あの日の朝、目覚ましのアラームも鳴っていないのに、なぜか5:40にパっと目が覚めたのです。何気なくラジオを付けると、まもなく地震のニュースが流れてきました。神戸出身の村上春樹は、懐かしい故郷の町が崩壊していく様を、どういう気持ちで見ていたのでしょう。その後に描かれた小説です。なので、すべての短編に地震の影が直接的、間接的にまとわりついているストーリーだった気がします。
(私は知りませんでしたが阪神・淡路大震災から30年経った2025年に、この短編集を元にNHKがドラマ化し「地震のあとで」という4回シリーズで放送されたようです)
この短編集の中に「かえるくん、東京を救う」という小説がありました。信用金庫か信用組合のサラリーマンとして融資の返済の交渉を担当する一人暮らしの孤独な主人公の男のもとに、ある夜、人の背丈もある大きなカエルが現れて彼に頼みごとをします。地下に棲む巨大なミミズが暴れて東京に大きな地震を起こし、人がたくさん亡くなるから、それを阻止するために自分といっしょにミミズと闘ってほしい、という内容でした。それは主人公の男でなくては出来ないことだと、カエルは言います。結局、男は地下に潜り、カエルといっしょにミミズを倒し、東京を地震から救います。その後、男は誰かの手にによって狙撃され病院に運ばれた夜、満身創痍のカエルが病室にやってきて、男に語りかけます。
ざっくりとこんな話ですが、これを読んだのがちょうど東日本大震災の後でした。これはファンタジーと思いつつ、いや、もしかしたら日々、こんなことが自分の知らないどこかで起きているのかもしれない・・という思いも真面目にありました。あんな非現実のような想像を超えた災害が起きるのだから、世界のどかかでお化けミミズが暴れて地震を起こし、巨大なカエルと人間がそれを阻止しようとタッグを組んで、お化けミミズを叩き潰して世界を救っている非現実な出来事だって、あり得るかもしれない・・と。
ミミズって、もしかしたらこの世に巣くう人の念とか欲とか、そんなドロドロしたものが具現化したものかもしれませんね。それを倒す人間は、決してマッチョでもなく、正義感溢れる戦士でもなく、ごく普通の、地味だけど、日々自分のやるべきことに一生懸命に取り組んでいる人物だったのです。
ついでの話で、深海誠監督の作品「すずめの戸締り」にも、地震を引き起こす巨大ミミズが登場します。おそらく、深海監督は「かえるくん、東京を救う」から着想を得たのだと、私は密かに思っています。
謹賀新年
今から24年前の午年正月に「人間万事塞翁が馬」と年賀状に書いてきた人がいました。
当時はまだ若く無知で、この故事の意味を深く理解していませんでした。
平たく言えば「幸が禍につながることもあり、逆に禍が幸につながることもある。
だから一喜一憂するな」という意味ですが歳を重ねた今、経験値としてそれが分かるようになってきました。
幸福も続きませんが、不幸も続きません。
新たなフェーズに入った2026年が皆様にとって実り多き年でありますように。
今年もよろしくお願いします。
2026年 元旦
有限会社ユーアンドエス
代表取締役 恩田 澄江
以上は今年の年賀状の文面です。友人たちから「正月からくどいんだよね~」と言われながらも、気にせず毎年書きたいことを書いて送っています。
それでも「毎年、何が書いてあるか密かに楽しみにしてる」とか「年賀状の文面に癒されます」と言ってくれる奇特な友人もいるわけです。
全員が納得するものなどありません。無難に最大公約数にするか、もしくは一部の人間に刺さるかのどちらかです。
そのどちらを選択するかは本人次第です。もう60年近く生きてきたので、今さら媚びたり人の顔色を気にするのもつまらない。
外側から与えられたフォーマット通りの人生を送るよりも「人生を内側から生きる」(中沢新一の本の中の言葉)ことを良しとしたいと思っています。
与えられることが当たり前の受け身の人生には、常に不平不満がついてまわります。
でも、自ら選択したものについては真摯に受け止め責任を負わねばなりません。
選択した人生をどうアレンジし気分良く過ごせるか、それを楽しむ度量とか深みを身に付けていきたいですね。

神社の画像は日光二荒山神社。毎年恒例で、正月2日にいろは坂を上って参拝しています。
今年は奥日光に入ったとたん雪が降り始め、あっという間に一面雪景色になりました。
気温は-5℃ですが、日光の山々の神聖で清涼な空気にさらされ、心身が清められます。


これまた恒例の行事ですが、参拝の後には戦場ヶ原の三本松茶屋さんで食事をします。
こちらは明治4年創業という奥日光では最古参のお店だそう。
店内に古い時代の茶屋のモノクロ写真が飾ってありますが、まだ人の匂いのしない原始の気配を色濃く漂わせる戦場ヶ原の一角、
店の由来になった3本の松の木の傍に、素朴な木造の茶屋がポツンと建っている様子は、何とも奥日光の歴史を感じさせる写真です。
一転、現在のお店は標高1,400mの場所であるにも関わらず、「この場所でこのクオリティ?!」と驚くくらい、オリジナルのお料理を提供してくれます。
よくありがちの「うどん、そば、ラーメン」だろうと、あなどってはいけません。
絶品のデミクラスソーズの煮込みハンバーグ、絶品スープカレー、カレー風味のチーズドリア、ハヤシライス、パスタ等々、奥日光の景色を見ながらいただく美味しいお料理に大満足。
さらに標高1,400mという物理的条件を加味すると、値段もかなり良心的な設定だと思います。

今回はお正月企画ということで、お箸袋の内側に当たりマークがあれば限定50個のプレゼントがもらえるとのこと。
なんと!私と母親の箸袋の内側に同時に当たりマーク発見!
クジ運とは無縁の私は思わずスタッフさんに「これ、全員当たりになってない?」と聞いたら、
「当たりが全然出なかったので、心配してたところなんです」と言われました(笑)。
店内からも「すごーい」の歓声。
三本松茶屋さん、年始早々、幸先良いスタートを切らせていただき感謝申し上げます!

【おまけ】
我が家の女帝猫・スー様。今年もイカ耳でキリリと美しくあられます。
何事にも妥協せず自分の意志を通すスー様は、他の3匹(全員オス♂)からも一目置かれる存在です。
思えば10年前、まずスー様が我が家に初めて踏み込んできました。
「ここはいける」と判断した後、兄や弟を引き連れてきたスー様。
危険を冒しても、自分の兄弟たちの居場所を確保しようとした健気で愛に溢れたスー様に、皆ひれ伏すしかありません。
鶴居村に寄付しました!
いったい日本人の感覚はどうなってしまったのかと、メガソーラーの映像を見るたびに心が痛んでいました。東日本大震災以降の脱原発、地球温暖化防止策としての脱化石燃料の大きな切り札として国を挙げて大々的に進められてきた太陽光発電政策。
自然エネルギーは地球環境にやさしいという触れ込みで始まったはずでしたが、十数年を経て気付けば山は削られ森林は切り倒され、のっぺらぼうに整地された土地に無機質なパネルが大量に設置されるという結果となりました。これ、どう考えたって環境にやさしいか?明らかな環境破壊の極みとしか思えません。自然豊かなこの国に生まれて、この歳になってこんな景色見たくなかった。多くの日本人がそう感じているはずです。
それでも日本人は従順だから、お上のやることには安易に異は唱えない。でもさすがに2025年は、今まで溜まり溜まってきた太陽光発電に対する違和感や不満が「いい加減にしろ!」と、表に噴き出してきた年でもありました。福島県吾妻連峰中腹に現れたメガソーラー施設も話題になりました。住民曰く「ある日、いきなり見慣れた山が切り開かれ山肌が剥き出しになった」といったようなコメントを多く見ましたが、住民たちは寝耳に水という感じでした。
これさ、説明責任とか環境アセスメントとかどうなっているのよ。どうして地域に知らされず唐突に開発が始まるのか。林野庁勤務の友人に聞いたところ、例えばバブル時代、どこかの大資本が山の中にゴルフ場やリゾートホテルやレジャー施設の建設計画を申請し、県が開発許可を出していたとする。ところが建設前に大資本の経営が破綻して計画が頓挫したとする。しかし一度開発許可が下りた土地はたとえ計画が破綻しても、許可が取り下げられることはないそうで、開発許可を維持したままま放置される。それから数年もしくは十数年後、別の大資本がその土地に目を付け、その時代の流行り物をそこに計画する。バブル時代はゴルフ場やスキー場だった。その次に来たのが、国のお墨付きを得て税制優遇や補助金も出る太陽光パネルだ。エコなんてものは単なる建前で、そろばん勘定のビジネスでしかない。耳に心地よい言葉は都合よく利用されやすい側面があります。
「リゾート法」なるものが制定されたのが1987年。まさしくバブルの真っ只中で、この法律の制定は当時話題になりました。正式には「総合保養地域整備法」というそうです。ウィキでは「リゾート産業の振興と国民経済の均衡的発展を促進するため、多様な余暇活動が楽しめる場を、民間事業者の活用に重点をおいて総合的に整備することに関する法律である」となっています。この法律の制定後、森林の開発許可が下りやすくなったことで全国津々浦々、様々なリゾート施設が計画され、バブル終焉とともに破綻していきました。残されたのは乱開発された森林や施設の残骸です。
結局、上物がレジャー施設から太陽光パネルへ変わり、その土地に縁もゆかりも無いどこかの誰かに巨大な利権が流れ込む仕組みは過去の繰り返しです。いや、それでもレジャー施設は便乗効果で地元経済に少なからず貢献したかもしれないが、太陽光パネルは地域へ何を還元するのでしょうか。しかも厄介なのは、自治体との交渉窓口は一応日本企業(ペーパーカンパニーの場合もあるそう)になっていますが、裏には外国籍の資本が虎視眈々口を大きく開けて控えているケースがあることを忘れてはなりません。
これまで巨大な資本と国が結託して遂行する計画の前に、地域は無力でした。しかし今回の件はたとえ小さな自治体でも声を上げ、志を同じくする仲間を集いその意志を形にし、巨大な力に「NO!」を突き付けられることを世に知らしめた出来事だと思います。それは自民党総裁選への出馬記者会見において「これ以上私たちの美しい国土を外国製の太陽光パネルで埋め尽くすことには猛反対だ」ときっぱりと宣言し、メガソーラーの規制強化へと大きく舵を切った現高市政権の影響もあるでしょう。2025年、沈黙していた声がいよいよ表に出て来ました。私たちは何を思い、何を守らなければならないのか。時代は確実に変わっています。
永遠の美女 新橋ぽん太
昨今はAIの進化で画像や動画処理の技術も飛躍的に進化したようです。YouTubeを見ていると、明治や大正時代に生きた人物の古写真を元にAIを使って動画を生成し、まるで本人をビデオカメラメラで撮影したかのようなリアルな映像がたくさん流れています。以前から古い時代のモノクロ人物写真を見るのは好きだったので、新選組の隊士や幕末の志士たちが笑ったり走ったりする様は実に自然体かつリアルで思わず見入ってしまう。AIすばらしい!こういう技術は大歓迎です。
古写真の中に、明治大正期の美女たちを集めた写真集などがあります。だいたいが当時の花街界隈で人気を集めた芸妓さんの写真が多く、彼女たちは今でいう国民的アイドルのような存在でした。アイドルのプロマイドと同じように、彼女たちの姿が印刷された絵葉書が販売されていたようですね。
その中の1人に「新橋ぽん太」という芸妓さんがおりました。彼女は新橋・玉の屋の芸者で、本名は「谷田えつ」といいます。当時の新橋の並み居る美妓たちをおさえ、ナンバーワンの呼び声高かったのが「ぽん太」です。世間から「西の富田屋八千代、東の新橋ぽん太」と謳われ、一世を風靡しました。ちなみに富田屋八千代とは大阪南地の富田屋(とんだや)の芸妓で、同じく美貌と芸と粋で人気を博した名妓です。(かの松下幸之助も八千代に声をかけられ一言も話せず顔を赤らめた、という逸話も残っています)
私がぽん太を知ったのはだいぶ前、幕末から明治の日本の風俗を撮影した写真集を本屋でパラパラめくっていた時です。おそらく10代であろう美しい二人組の娘の写真に釘付けになりました。一人は優しげな下がり眉と、二重瞼の憂いを帯びた大きな目が印象的な現代的美人で、口元にうっすらと笑みを浮かべていました。もう一人はふっくらした頬がまだ少女のような幼さを残しつつ、こちらを見つめる黒目がちで切れ長の大きな目がまるで日本人形のようでした。でも口元は、隣の女性とは対照的にキュっと閉じられていて、その清らかで凛とした表情が彼女の内面の強さを物語っているようでした。
それが、ぽん太でした。ただ、その時はまだ携帯どころかインターネットさえ普及していなかった頃で、ぽん太についてそれ以上調べることもせず、本を閉じてそのまま棚に戻しました。でも、その後も自分のなかに「ぽん太」という名前はずっと残り続けました。どうやらあの写真を一目見て、彼女に魅了されたようです。それからだいぶ後になって、彼女が東京一ともてはやされた名妓で、時の豪商・鹿島清兵衛の愛妾であり、写真道楽が過ぎて養子縁組先の鹿島家から追い出された清兵衛の正式な後妻となり、その後たいへんな苦労をして清兵衛を支えたということを知りました。
東京日本橋に、かつて江戸時代から続く鹿島屋という酒問屋を営む豪商がありました。広大な土地と巨万の富を有し、江戸時代に商人ながら苗字帯刀を許されたという事実からしても、そうとうな財力だったのでしょう。江戸十人衆の一人に数えられ、その仲間には三越の前身である越後屋、大丸、白木屋(東急)などがいたといいます。明治の世を迎えると鹿島屋は七代目夫妻が早世し、残されたわずか13歳の長女娘・乃婦(のぶ)が家業を継ぐごとになりました。当時、鹿島屋は同族であった大阪天満の酒問屋鹿島屋から養子を貰っており、それが当の清兵衛です。
明治20年の初め頃、清兵衛は最愛の長男を突然亡くしました。江戸から明治になり刻々と移り行く時代のなかで、養子の身で老舗の大店を維持することに苦心していた清兵衛にとって、息子の死は大きな痛手となったにちがいありません。そんな傷心のさなか、清兵衛は先代が手に入れ、蔵の中で埃まみれになっていた写真機を見つけます。気分転換でも、という周囲のすすめもあったといいますが、当時まだ特権階級にしか許されていなかった写真という高級な趣味に、清兵衛は次第にとり憑かれたようにのめり込んでいきます。ちょうどこの頃、日本政府の招きで建築家であり写真家である英国人のバートン博士が来日していました。清兵衛は博士から、熱心に写真の理論と技術を学びました。
はじめは東京近郊に写真機を担いで行って、珍しがって集まる見物人を撮影する日々でしたが、次第に清兵衛の技術と情熱は、趣味の領域を逸脱していきます。彼の写真は当時の常識をはるかに超えていました。有名なのが、九代目市川団十郎の等身大の舞台写真。このサイズは当時の技術では世界にも類がないそうです。他にも明治天皇の銀婚式のお祝いとして献上された超巨大な富士山の写真など、鹿島屋の財力をバックに、外国から最新式の大型の機材を次々取り寄せ撮影する作品は、とにかくスケールの大きなものばかりでした。おまけに両国川開きの際に行った我が国初のCM入り仕掛け花火の演出など、技術だけでなく清兵衛は監督兼プロデューサー役もこなし、彼の多才多芸ぶりはあらゆる方面で発揮されたのです。
清兵衛は家業を妻と使用人に任せきりにし、今の銀座六丁目界隈に豪壮にして最先端を行く写真館「玄鹿館」をオープンさせました。坪数159坪、内部は回り舞台になっていて、夜でも撮影ができるように2500個もの電燈が備え付けてあったといいます。芝居小屋から大道具、小道具、衣装係を雇い外国人のための通訳まで置いたそうで、写真館というよりちょっとした小劇場に近く、そこに芸者や役者が毎日押しかけ盛大に宴会をやっていたといいます。そのため清兵衛は世間から「写真大尽」「今紀文」と呼ばれていました。(今紀文とは江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門になぞらえたあだ名)
清兵衛がぽん太と出会ったのも、写真が縁でした。おそらくぽん太が14、15歳の頃でしょうか。キリンビールが公募した「美人写真」のモデルとして彼女を紹介されたのが、二人のなれ初めと言われています。以来、清兵衛の行く所、必ずぽん太の姿がありました。清兵衛がぽん太に「お前は笑わないほうがよい」と言い含めたという話が残っています。だから彼女の写真には、笑った顔が無いのだと言われています。ぽん太が大輪の花としてまさに咲かんとしていた17歳の時、清兵衛は彼女を落籍しました。
歌人・斉藤茂吉が随筆『三筋町界隈』のなかで、その頃のぽん太の思い出を書いています。
「私は小遣銭が溜まるとここに来てその英雄の写真を買いあつめた。
そういう英雄豪傑の写真にまじって、ぽんたの写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃くうっているのもあつた。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折りにふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。ぽんたはそのころ天下の名妓として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということでしきりに噂にのぼった頃の話である」
精神科医でもあった茂吉は義父が経営する青山脳病院の慰安会で、すでに人妻となり歳を重ねたぽん太が舞を披露したときのことを思い出し、歌を残しました。
「かなしかる 初代ぽん太も 古妻の 舞ふ行く春の よるのともしび」(大正3年)
茂吉はぽん太が亡くなってだいぶ経った昭和11年の秋に、彼女が眠る多磨墓地に墓参りにも訪れています。茂吉も私と同じように、東京一と謳われた美女ぽん太の面影に生涯魅了され続けた一人なのかもしれません。その人の内面を語るようなキュっと結ばれた口元と、その嘘のない切れ長の涼やかな目元に惚れたのでしょう。そして、その後の彼女の生き様にも。
清兵衛が撮った写真が「美人絵ハガキ」となり全国に出回ったことで日本中の老若男女の憧れの人となったぽん太の人生は、ある時点からくっきりと色合いが違ってきます。度を過ぎた清兵衛の写真道楽に目をつぶってきた鹿島屋も、ぽん太を落籍するとさすがに黙っていませんでした。清兵衛はとうとう日本橋鹿島屋一族から養子縁組の解消を申し渡されます。清兵衛はそれを受け、手切れ金25万円を受け取り妻の乃婦と離婚し鹿島屋を出ました。(この夫婦には4人の子供がいたといいます)
世間が驚いたのは、天下の鹿島屋の旦那の座を追われた清兵衛とぽん太が正式に結婚し、後妻として納まったことでした。金の切れ目は縁の切れ目だと、さんざん貢がせておきながら男が落ちぶれるとアッサリ袖にする芸者は多かったことでしょう。しかもぽん太ほどの上等の芸者なら、お座敷に戻ることも他に勢いのある旦那を見つけることも十分できたはずです。でも、彼女は清兵衛と別れませんでした。以前、まだ結婚前の二人を偶然見かけた文豪・森鴎外が「病人と看護婦という印象」と書いています。これは作家特有の慧眼なのかもしれません。
鹿島屋の財力を失うと、清兵衛が手塩にかけた玄鹿館もまもなく破綻した。その後、夫婦は大阪へ引っ越し写真館を始めますがうまくいかず、再び東京へ戻り本郷で春木館という写真館を開業しました。しかしよくないことは続くもので、撮影のフラッシュに使うマグネシウムの爆発事故で清兵衛は右手親指を失ってしまいます。そのせいで、写真業を続けることをあきらめざるをえませんでした。それでも、もう一つの趣味であった能楽の笛が、彼のささやかな唯一の収入源となりました。(この笛も玄人の腕前だったそうです)
写真からの収入がなくなると、鹿島屋からの手切れ金とぽん太が芸者時代に覚えた三味線や踊りのけいこ代が一家の生活を支えることになります。当時のサラリーマンの月給百五十円に対し、ぽん太はけいこ代で五百円近く稼いでいたというのだから、まさに自分のキャリアで身を立て一家を支える「できる女」でした。さしずめ今なら、芸能界を引退したかつてのトップアイドルから歌やダンスのレッスンを受けるわけですから、けいこ代も相場よりかなり高く取れたことでしょう。
斉藤茂吉が後年、青山脳病院の慰安会で舞うぽん太を見て歌に詠んだのも、蝶よ花よと皆の羨望を一身に浴びていた10代の可憐なぽん太でなく、清兵衛と結婚し「鹿島えつ」となり、生活のために寄席や地方巡業までこなし「ホラ、あれがあのぽん太だよ」と、口やかましい世間から好奇と憐憫の目で見られていた頃のぽん太なのです。それでも夫婦は13人の子供を養い、世の人々は「貞女ぽん太」と彼女を称えました。
もうひとつ、忘れてならないのは清兵衛の元妻・乃婦です。老舗の跡取り娘らしく、豪気で気風の良い人柄だったようで、あれほど実家の財産を食い潰し、揚句は贔屓の芸者と結婚し家を出た元夫に対し、彼女は毎月四百円もの大金を仕送り続けたといいます。心ない人々は乃婦の行為をせせら笑いました。しかし、どれだけ周りから嘲笑されようとも、3歳4歳の幼い頃から同じ屋根の下で共に過ごし夫婦となり、激動の時代のなか養子の身で老舗の看板を背負った夫の苦労も十分見てきた乃婦は、死ぬまで清兵衛一家に送金を続けたといいます。
どれだけ落ちぶれようと、女たちは清兵衛を支え見捨てはしませんでした。それは持って生まれた彼の徳なのでしょうか。それとも彼女たちだけが知っている、ほとばしる情熱と妙に冷めた気分が紙一重となったような清兵衛の抗いがたい魅力なのでしょうか。あるいは陽気の底に潜む陰りと憂欝を抱えた人間に対する、本能的な母性なのか。人の気持ちは他人にはわかりません。外野があれこれ詮索しても、しょせん本人同士にしかわからないことです。
清兵衛は大正13年、関東大震災後の吹きさらしの能舞台へ体調不良のなか無理して出演し、それがもとで帰らぬ人となりました。五十八歳でした。翌年、清兵衛の後を追うように、ぽん太も45歳で他界しています。

