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コラム

2026
02 / 08
20:00

成るか、400年越しの御恩返し

成るか、400年越しの御恩返し

昨日、夜の800をもって、2026年衆議院選挙・柏倉ゆうじ候補遊説隊のマイク納め式が終わりました。

 

思えば初めて選挙活動のお手伝いをしたのは学生時代、たまたま山形県鶴岡市のNHK鶴岡支局でアルバイトしていた時に市議会議員選挙があり、どういう経緯か忘れましたがNHKの労組関係の人に頼まれ、社会党(当時)公認候補のウグイス嬢に駆り出されたことが、選挙との最初の出会いでした。

 

季節はちょうど春爛漫の頃、選挙カーで郊外に繰り出せば、山々はまさに「石走る垂水の上のさわらびの 萌えいずる春になりにけるかも」のごとく、

一面柔らかな新緑に覆われ、遠方には真っ白い雪の綿帽子を被った月山の頂が、春の陽に照らされ光り輝いていました。

そんな景色の中を、候補者の名前を叫びつつ、市内の隅々まで回った最初の選挙活動は、学生の自分とってまことに新鮮で楽しい経験でした。

 

それ以来、社会人になっても時々「ウグイスの経験がある」という実績(?)で、知人や友人に頼まれ、ウグイス嬢を務めさせていただきました。さらに勤め人時代の電話営業の経験から、知らない相手に電話で支援をお願いすることに対し、まったく抵抗が無い体質が重宝され、電話かけのお手伝いもしてきました。

契約を取らなくてよいお願いだけの電話など、本当に楽なのです。

 

柏倉ゆうじ君は私の1歳下で、同世代です。友人の後輩という関係でした。

10年近く前、友人から「人が足りないので、選挙手伝ってよ」と言われ、「できる範囲でね」くらいの軽い気持ちで関わったのがどんどん深みにはまり、今や後援会幹部になっています。

 

柏倉ゆうじ君は陽東中学校の出身なので、コアな応援団は駅東の峰地区の方々が中心です。お父上が宇都宮大学のすぐ近所で、精神科を開業していました。現在はお兄さんが継いでいます。柏倉ゆうじ君も医者ですが、15年ほど前に思うところがあり、政治家を志しました。

 

組織も団体も何もないところからのスタートでしたが一度だけ、栃木2区から立候補し衆議院議員に当選しました。

落選後は拠点を地元の宇都宮に移し、栃木1区から再び衆議院議員をめざし挑戦を続け、今回で5回目の挑戦になります。

 

「医者をやっていればいいのに、どうしてわざわざ政治なぞ?」という、非難めいた意見もこれまで数多く寄せられました。

それでも彼はそういった中傷を物ともせず、浪人中は医者として現場に立ちながら、日々街頭にも立ち、通勤通学の有権者の皆さんや自転車で急ぐ学生さんたちに、深々と頭を垂れて朝の挨拶を続けました。

 

私が本格的に陣営の中に入ってお手伝いを始めた8年前、「柏倉ゆうじ、知ってる?」と聞くと「だれ?知らない」という答えが圧倒的に多かったと思います。

しかし、街頭に立ち続け、毎朝同じ場所、同じ時間に挨拶し、あきらめず選挙に出続けていると、さすがに存在が認められてきたのでしょう。

 

選挙の回数を重ねるうちに、「柏倉ゆうじさん、朝、いつも交差点に立って挨拶しているね」「がんばっているよね」「いつも車から手を振ってあげるんだ」という声が聞かれるようになってきました。

さらには「柏倉先生を見ていると、自分もがんばらなくちゃと思うんです」と、事務所まで訪ねてくる方が出てくるようになりました。

「柏倉ゆうじ」の名前と存在が浸透しつつあることは、年々肌感覚として実感できるようになってきました。

 

でも、ご存じの通り、栃木1区で野党として闘うことは容易ではありません。めざす敵の牙城はあまりに巨大で堅牢です。

しかも、野党第1党でもない身の上だったため、さらに情勢は厳しいものでした。

しかし、長く続けていると、予想もできないような出来事が起こるものです。神様は奇跡を起こしてくれました。

2026年の衆議院選挙において柏倉ゆうじは、はじめて、高市早苗総理大臣を支える連立与党の公認候補として、出馬することができたのです。

数か月前は、誰一人として、このような事態を想定してはいなかったでしょうに。

 

与党としての出馬は、運動員のモチベーションも上げてくれました。「政権与党として、高市さんと共に改革を進めます!」と、堂々と訴えられる誇らしさよ。

街頭演説を聴きに来てくれる方々の人数も増えました。女子高生からは「ゆうじ!」という元気な声援をいただきます。

そして、柏倉ゆうじ君の朝街頭を、高校時代に見てきた子たちが、今や立派な社会人となり「学校に行く途中、自転車から手を振ったら、柏倉さんがいつも手を振り返してくれた。だから応援します」と言ってくれます。

人間が人生のステージをひとつ上げるくらい、それだけ長く活動をしてきたのかと思うと、感慨深いものがあります。

 

40代の初めに政治を志した柏倉ゆうじ君も、今年の春に57歳になります。

人間万事塞翁が馬、人事を尽くして天命を待つ。

本人も運動員も、やれることは全てやり尽くした、勝負をかけた特別な選挙戦でした。すべては今夜、答えが出ます。

 

 

さて、タイトルの「・・・400年越しの御恩返し」とは一体なんぞや?と思われる方もいらっしゃると思います。

ここからオプション、あくまで私の寝言だと思って聞いていただきたい。

 

いつぞや、「前世が視える」という人が私に言いました。

 

・視える人 「あなた、戦国時代は越後の上杉家の重臣で、山形県あたりで切腹した武士ですね」

・私 「はっ?山形県に住んでいたことはあるけど、ご先祖は栃木県ですよ」

・視える人 「山形に住んだということは、その土地と因縁が深いということなのよ」

・私 「では何という戦いで切腹したのかね?」

・視える人 「関ケ原・・かな」

 

「それは絶対にないでしょう」と思いました。だって、関が原は西国。山形とは、いかようにもつながらない。

でも、気になったので調べてみました。すると、驚きの発見がありました。

戦国時代、山形市の近隣にあった長谷堂城という場所で「北の関が原」と言われる慶長出羽合戦という大きな戦が起きていたのです。

軍師・直江兼続が指揮を執る上杉景勝と最上義光の戦いで、豊臣(西軍)vs 徳川(東軍)の代理戦争の体を成していました。

数に勝る上杉勢絶対有利のなか、結局、東軍の最上勢が勝利しました。そして、長谷堂城のすぐ近所に、柏倉家のルーツである柏倉村(現山形市)がありました。

柏倉家は、そこのお寺さんを本家とする家系なのです。

柏倉ゆうじ君の本家が、山形市の寺だということは聞いていました。

しかし、そうつながるとは思わなんだ・・。

 

そこで、柏倉ゆうじ君に思い切って聞いてみた。

 

・私 「先生の本家のお寺の近くで、戦国時代に長谷堂城の戦があったよね」

・柏倉君 「ありましたよ!子供の時におばあちゃんの家に遊びに行くと、長谷堂城跡によく行きました。

     そんなマニアックが話、恩田さん、よく知ってますね」

・私 「私の寝言として聞いてほしいけど、私の前世はそこで切腹した上杉家の武士だって言われた。

    もしかして、私は先生のご先祖のお寺で弔ってもらったのかもしれない」

・柏倉君 「恩田さん!前世云々は置いといても、うちの寺は長谷堂の戦いで戦死した武士たちを、上杉も最上も分け隔てなく、両軍の戦死者を弔ったことで

     伊達政宗から感謝され、恩賞として伊達家より家紋を拝受したと聞いています」

・私 「ありゃりゃ、意外に話がつながる・・・」

 

というわけで、私の中に1つのロマンチックな物語が誕生しました。

昔むかしの戦国の世、山形県の柏倉家のご先祖様に弔ってもらったその御恩返しこそ、私が柏倉ゆうじを選挙で勝たせることなのだと!

詭弁でも身勝手な妄想でも、何でもよいのです。でも戦いに大義があると無いとでは、心持がまったく変わります。

400年越しの柏倉家に対する私の御恩返しが叶うかどうか、今夜決まります。

 

 

 

 

 

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