コラム
高市早苗氏の総裁就任を受け、日本の国土を想う

先日、自民党総裁に高市早苗氏が就任しました。女性初であることも喜ばしいですが「景色を変える」という言葉に大きく期待しております。自分の中では、小泉進次郎氏の就任は絶対にあってはならないことでした。
彼は環境大臣だった2020年、国立公園内における再生可能エネルギー施設設置の規制緩和を促進する必要性を表明しました。それを受けて、2022年の自然公園法施工規則改正に伴い太陽光、風力、地熱などの再生可能エネルギーの設置が許可されやすくなり、結果として現在問題となっている釧路湿原のメガソーラーなどのプロジェクトの基盤が整備されたと言われています。
もう物心ついた時から誰に教わることもなく、自然とのバランスを考えず経済活動を優先するこの国の行く末に「何か違う」と本能的な違和感を抱いていました。自分はこれらの問題に関しては感情的です。深く悲しみ憤ります。その部分は非常に女性的であり、逆に女性性を大いに出して良いと思っています。まずは己の違和感や感情を原点としそこを大切にしながら、これからどうするべきか、知恵を出し合い考えるのです。それゆえ、これからの時代を担う女性リーダーの誕生を嬉しく思います。
今からちょうど20年前、37歳の時に忘備録として書き留めておいた文章をこの機会にアップしておきます。
「有永明人先生の思い出/2005年3月末日 記」
2005年3月中旬、私は数年ぶりに学生時代を過ごした山形県庄内地方に向かっていた。当時お世話になったゼミの教授、有永明人先生の退官記念最終講義に出席するためだ。当日、東北地方は真冬並みの寒波に覆われ、3月初めの吾妻連峰の谷や峰は春の片りんさえ見えない深い雪に埋もれていて、早春の陽にキラキラ光る残雪の山を見ることは叶わなかった。
電車が山形市を過ぎ、さくらんぼで有名な東根付近にさしかかると、ひときわ真っ白な頂をもつ山が左側の視界に大きく入り込んでくる。「月山」だ。よく霊山とか死者の集う山とか形容されるが、頭上に厚い雪の層を戴き月明かりに厳かに浮かび上がる月山を目の当たりにすれば、誰でも言葉を慎むだろう。月山は今も変わらず、静かに見る者を圧倒していた。
大学に入学して初めて、私は福島県を越えた。入学した年は昭和63年度、昭和の最後でバブルが崩壊する前夜だ。
生まれてから成長期にかけてちょうど高度成長期やバブル経済期と重なり、子ども時代にそれらのエキスを一身に浴びて育った世代の私たちに、大人たちは(借り物の)理想やお手本を与え、それを手本とすれば豊かな人生が保障されると吹聴した。いまや、あらゆる価値観やモデルは崩壊しひとつの時代の終焉を見届けた私たちは、なかば呆然となって、もしくはあえて目を逸らし気付かぬふりして時代の過渡期に立っている。
「世界に冠たる東北の森林」
「庄内浜で釣りをしながら世界を視る」
これがゼミの間にどちらか一度は聞くことになる有永先生十八番のセリフだった。生粋のアウトローでアナーキストでロマンチストな先生との出会いは衝撃的で、一年生のときの初講義でいきなり打ちのめされてしまった私は、「四年生になったら絶対にこの先生の研究室へ入る」と心に誓った。
「日本は世界有数の森林国なんだ。国土の67%が森林なんだよ。世界中どこの国もかなわない。とくに、この東北地方の森の豊かさは世界一だ。ボクのいう豊かさは量的なものじゃなく、樹種の多さと分布の多様性だ。ボクの生まれは九州だけど、東北の日本海側に来てその質的豊かさに心底驚かされた。日本人はヨーロッパの人々に比べ森林を知らない…と言う人がいるけど、例えばね、東北の人ほど多種の山菜を多様に食べる民族は他にいないね。山野草を利用する食文化と食生活の多様さこそ、東北人がその歴史を通じて豊かな森林観を形成してきた証だよ」
通称ワンゲルの活動はGW明け、雪女伝説で名高い笹谷峠から蔵王の霊峰熊野岳まで縦走する第一次錬成合宿からスタートする。東北の山の四季は夢のようだった。二次錬、三次錬と続くうちに山々は魔法のように変化していった。五月半ば、稜線にも遅い春が到来し柔らかい産毛に包まれた生まれたばかりの黄緑色の新芽がふんわり木々を覆い始める。
この情景をそんなふうに表現した先輩がいた。本当に山は笑っていた。
六月ともなれば、稜線は新緑の海となる。ブナの林は爽やかな6月の光を反射し、美しい黄緑のグラデーションを造りながら初夏の風に波打っている。ナラやトチノキ、カバにカエデ、あらゆる広葉樹がまだ柔らかい若々しい葉を伸ばし、存分に光と二酸化炭素を体内に採り入れ命の元を生成している。遠くでカッコーの声がする。木々が生み出す新鮮な空気をもらって呼吸する。静寂のなかに聴こえるのは、山を抜ける風の音だけだ。気が付くと、私はこの空間と不思議な一体感のなかにいた。
(そうか、自分は生かされている。これは山の神様の贈り物なんだ…)
高度経済成長にともない1950年代から始まる国の拡大造林政策によって、かつて豊富にこの国に存在した広葉樹天然林の大規模な伐採が敢行された。その跡地にスギやヒノキの単一樹種による一斉林が造られると様々な樹種で構成されていた広葉樹林帯は姿を消し、山は住宅用材という資本提供の場と化していく。
「それは結果であって、根本的要因はもっと根深いところにある。いいかい、この国の林業は薪や炭でもっていたんだ。日本人は長い間森林から生産される下草や間伐材を日々の生活に使う飼料として利用してきたんだよ。そこにはその土地ごとの自然条件を生かした多様な森林の利用、つまり森林文化があった。日本人が昔からスギやヒノキを大量に造林してきたなんて思っちゃいけない。戦前までは、せいぜい一番利用しない谷地みたいなところにほそぼそとスギを植えていただけなんだ。ところが戦後エネルギー革命が起きて、山村の隅々までプロパンガスや石油が浸透すると燃料としての薪や炭が生産されなくなった。そうすると、生活の糧として森林は必要なくなる。この時から山里の生活と森が切り離されていったんだ」
そして私たちの精神も生活も、森や木と同じだ。巨大資本とその申し子のマスメディアは戦後数十年かけて、多様性に富んだ各地の暮らしや知恵や文化、人間の心までもブルドーザーのように根こそぎ解体し画一化してしまった。本来、北から南に長い日本列島は地域ごとに衣食住とも変化に富んだ生活様式を保っていたはずなのに、今では日本の地方はどこに行っても、同じような景色になってしまった。そして多様性を失ったことと引き換えに、私たちはどこに住んでも一定の平均的で、便利な生活を送れるようになった。
「先生は学者だからね。歴史や事実を解明して、世の中のからくりやインチキを暴くのが仕事だ。すべてはそこから始る。事実を踏まえて、課題を提供するんだよ」
先生はいつもそういって笑った。私にはそれで十分だ。先生が大きな宿題を与えてくれたことは分かっているから。生きているうちにすべてを解決することは不可能かもしれない。それでも資本主義という旗印のもと、飽くなき欲望を追及し生きてきた私たちが負うべき義務なのだろう。
「でも確かに言えることは、かつて日本の里山で行われていた薪炭材の生産と薪炭林の施業が、結果的に森林を上手に維持・管理していたってことだ。そのなかでは森林の再生は伐根でなく、萌芽が基本となる。つまり、森林を15年から20年サイクルで「弱度に、しばしば伐採する」ことで里山の森林は世代的に若返り、健全な状態が維持されたってわけだ。これは日本が世界に誇る伝統的な森林のリサイクル・システムなんだよ。だからね、山で生活する者たちが森林を自分たちの手に取り戻さなくちゃならないんだ。衣食住の基本的な生活用資材を地域の自然に依って、もう一度リサイクル・システムを造り出すことだ」
市場原理って、絶対的なものなのか?否、違う。それは誰かが作り出した、誰かにとって都合の良いシステム。大切なのは自分の自由な心で感じること、そして自分の頭で考えることだ。真実は自分自身の中に、きっと人の数だけ存在する。
「君の感性はすばらしいし、文章もなかなか上手いけれど、科学的分析が足りないね。感性だけではダメだよ。事実をきちんと論理的に分析しなくちゃいかん」
先生は私がレポートを提出するたびにそう言った。
先生の講義はずっと私の中の特別室に大切に保管されていて、今なお色褪せず私を揺さぶり突き動かす。卒業時、クラスの大半が地元にUターンし公務員に落ち着いたなかで、ダメ学生の私はその道を選ばなかった。けれども、どんなにまわり道をしても、私はいつか原点に帰ろう。どこにいても何をしていても、自分の中の宝石は、決して曇ることのないよう密やかに磨いていようと思う。それは子ども時代に感じた山や自然への思いであり、丸坊主に伐採された山を見たときの、十代のあの日の違和感であり、そして先生から受けた教えの数々だ。
先生、私はあいかわらず成長していないでしょうか?