コラム
永遠の美女 新橋ぽん太
昨今はAIの進化で画像や動画処理の技術も飛躍的に進化したようです。YouTubeを見ていると、明治や大正時代に生きた人物の古写真を元にAIを使って動画を生成し、まるで本人をビデオカメラメラで撮影したかのようなリアルな映像がたくさん流れています。以前から古い時代のモノクロ人物写真を見るのは好きだったので、新選組の隊士や幕末の志士たちが笑ったり走ったりする様は実に自然体かつリアルで思わず見入ってしまう。AIすばらしい!こういう技術は大歓迎です。
古写真の中に、明治大正期の美女たちを集めた写真集などがあります。だいたいが当時の花街界隈で人気を集めた芸妓さんの写真が多く、彼女たちは今でいう国民的アイドルのような存在でした。アイドルのプロマイドと同じように、彼女たちの姿が印刷された絵葉書が販売されていたようですね。
その中の1人に「新橋ぽん太」という芸妓さんがおりました。彼女は新橋・玉の屋の芸者で、本名は「谷田えつ」といいます。当時の新橋の並み居る美妓たちをおさえ、ナンバーワンの呼び声高かったのが「ぽん太」です。世間から「西の富田屋八千代、東の新橋ぽん太」と謳われ、一世を風靡しました。ちなみに富田屋八千代とは大阪南地の富田屋(とんだや)の芸妓で、同じく美貌と芸と粋で人気を博した名妓です。(かの松下幸之助も八千代に声をかけられ一言も話せず顔を赤らめた、という逸話も残っています)
私がぽん太を知ったのはだいぶ前、幕末から明治の日本の風俗を撮影した写真集を本屋でパラパラめくっていた時です。おそらく10代であろう美しい二人組の娘の写真に釘付けになりました。一人は優しげな下がり眉と、二重瞼の憂いを帯びた大きな目が印象的な現代的美人で、口元にうっすらと笑みを浮かべていました。もう一人はふっくらした頬がまだ少女のような幼さを残しつつ、こちらを見つめる黒目がちで切れ長の大きな目がまるで日本人形のようでした。でも口元は、隣の女性とは対照的にキュっと閉じられていて、その清らかで凛とした表情が彼女の内面の強さを物語っているようでした。
それが、ぽん太でした。ただ、その時はまだ携帯どころかインターネットさえ普及していなかった頃で、ぽん太についてそれ以上調べることもせず、本を閉じてそのまま棚に戻しました。でも、その後も自分のなかに「ぽん太」という名前はずっと残り続けました。どうやらあの写真を一目見て、彼女に魅了されたようです。それからだいぶ後になって、彼女が東京一ともてはやされた名妓で、時の豪商・鹿島清兵衛の愛妾であり、写真道楽が過ぎて養子縁組先の鹿島家から追い出された清兵衛の正式な後妻となり、その後たいへんな苦労をして清兵衛を支えたということを知りました。
東京日本橋に、かつて江戸時代から続く鹿島屋という酒問屋を営む豪商がありました。広大な土地と巨万の富を有し、江戸時代に商人ながら苗字帯刀を許されたという事実からしても、そうとうな財力だったのでしょう。江戸十人衆の一人に数えられ、その仲間には三越の前身である越後屋、大丸、白木屋(東急)などがいたといいます。明治の世を迎えると鹿島屋は七代目夫妻が早世し、残されたわずか13歳の長女娘・乃婦(のぶ)が家業を継ぐごとになりました。当時、鹿島屋は同族であった大阪天満の酒問屋鹿島屋から養子を貰っており、それが当の清兵衛です。
明治20年の初め頃、清兵衛は最愛の長男を突然亡くしました。江戸から明治になり刻々と移り行く時代のなかで、養子の身で老舗の大店を維持することに苦心していた清兵衛にとって、息子の死は大きな痛手となったにちがいありません。そんな傷心のさなか、清兵衛は先代が手に入れ、蔵の中で埃まみれになっていた写真機を見つけます。気分転換でも、という周囲のすすめもあったといいますが、当時まだ特権階級にしか許されていなかった写真という高級な趣味に、清兵衛は次第にとり憑かれたようにのめり込んでいきます。ちょうどこの頃、日本政府の招きで建築家であり写真家である英国人のバートン博士が来日していました。清兵衛は博士から、熱心に写真の理論と技術を学びました。
はじめは東京近郊に写真機を担いで行って、珍しがって集まる見物人を撮影する日々でしたが、次第に清兵衛の技術と情熱は、趣味の領域を逸脱していきます。彼の写真は当時の常識をはるかに超えていました。有名なのが、九代目市川団十郎の等身大の舞台写真。このサイズは当時の技術では世界にも類がないそうです。他にも明治天皇の銀婚式のお祝いとして献上された超巨大な富士山の写真など、鹿島屋の財力をバックに、外国から最新式の大型の機材を次々取り寄せ撮影する作品は、とにかくスケールの大きなものばかりでした。おまけに両国川開きの際に行った我が国初のCM入り仕掛け花火の演出など、技術だけでなく清兵衛は監督兼プロデューサー役もこなし、彼の多才多芸ぶりはあらゆる方面で発揮されたのです。
清兵衛は家業を妻と使用人に任せきりにし、今の銀座六丁目界隈に豪壮にして最先端を行く写真館「玄鹿館」をオープンさせました。坪数159坪、内部は回り舞台になっていて、夜でも撮影ができるように2500個もの電燈が備え付けてあったといいます。芝居小屋から大道具、小道具、衣装係を雇い外国人のための通訳まで置いたそうで、写真館というよりちょっとした小劇場に近く、そこに芸者や役者が毎日押しかけ盛大に宴会をやっていたといいます。そのため清兵衛は世間から「写真大尽」「今紀文」と呼ばれていました。(今紀文とは江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門になぞらえたあだ名)
清兵衛がぽん太と出会ったのも、写真が縁でした。おそらくぽん太が14、15歳の頃でしょうか。キリンビールが公募した「美人写真」のモデルとして彼女を紹介されたのが、二人のなれ初めと言われています。以来、清兵衛の行く所、必ずぽん太の姿がありました。清兵衛がぽん太に「お前は笑わないほうがよい」と言い含めたという話が残っています。だから彼女の写真には、笑った顔が無いのだと言われています。ぽん太が大輪の花としてまさに咲かんとしていた17歳の時、清兵衛は彼女を落籍しました。
歌人・斉藤茂吉が随筆『三筋町界隈』のなかで、その頃のぽん太の思い出を書いています。
「私は小遣銭が溜まるとここに来てその英雄の写真を買いあつめた。
そういう英雄豪傑の写真にまじって、ぽんたの写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃くうっているのもあつた。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折りにふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。ぽんたはそのころ天下の名妓として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということでしきりに噂にのぼった頃の話である」
精神科医でもあった茂吉は義父が経営する青山脳病院の慰安会で、すでに人妻となり歳を重ねたぽん太が舞を披露したときのことを思い出し、歌を残しました。
「かなしかる 初代ぽん太も 古妻の 舞ふ行く春の よるのともしび」(大正3年)
茂吉はぽん太が亡くなってだいぶ経った昭和11年の秋に、彼女が眠る多磨墓地に墓参りにも訪れています。茂吉も私と同じように、東京一と謳われた美女ぽん太の面影に生涯魅了され続けた一人なのかもしれません。その人の内面を語るようなキュっと結ばれた口元と、その嘘のない切れ長の涼やかな目元に惚れたのでしょう。そして、その後の彼女の生き様にも。
清兵衛が撮った写真が「美人絵ハガキ」となり全国に出回ったことで日本中の老若男女の憧れの人となったぽん太の人生は、ある時点からくっきりと色合いが違ってきます。度を過ぎた清兵衛の写真道楽に目をつぶってきた鹿島屋も、ぽん太を落籍するとさすがに黙っていませんでした。清兵衛はとうとう日本橋鹿島屋一族から養子縁組の解消を申し渡されます。清兵衛はそれを受け、手切れ金25万円を受け取り妻の乃婦と離婚し鹿島屋を出ました。(この夫婦には4人の子供がいたといいます)
世間が驚いたのは、天下の鹿島屋の旦那の座を追われた清兵衛とぽん太が正式に結婚し、後妻として納まったことでした。金の切れ目は縁の切れ目だと、さんざん貢がせておきながら男が落ちぶれるとアッサリ袖にする芸者は多かったことでしょう。しかもぽん太ほどの上等の芸者なら、お座敷に戻ることも他に勢いのある旦那を見つけることも十分できたはずです。でも、彼女は清兵衛と別れませんでした。以前、まだ結婚前の二人を偶然見かけた文豪・森鴎外が「病人と看護婦という印象」と書いています。これは作家特有の慧眼なのかもしれません。
鹿島屋の財力を失うと、清兵衛が手塩にかけた玄鹿館もまもなく破綻した。その後、夫婦は大阪へ引っ越し写真館を始めますがうまくいかず、再び東京へ戻り本郷で春木館という写真館を開業しました。しかしよくないことは続くもので、撮影のフラッシュに使うマグネシウムの爆発事故で清兵衛は右手親指を失ってしまいます。そのせいで、写真業を続けることをあきらめざるをえませんでした。それでも、もう一つの趣味であった能楽の笛が、彼のささやかな唯一の収入源となりました。(この笛も玄人の腕前だったそうです)
写真からの収入がなくなると、鹿島屋からの手切れ金とぽん太が芸者時代に覚えた三味線や踊りのけいこ代が一家の生活を支えることになります。当時のサラリーマンの月給百五十円に対し、ぽん太はけいこ代で五百円近く稼いでいたというのだから、まさに自分のキャリアで身を立て一家を支える「できる女」でした。さしずめ今なら、芸能界を引退したかつてのトップアイドルから歌やダンスのレッスンを受けるわけですから、けいこ代も相場よりかなり高く取れたことでしょう。
斉藤茂吉が後年、青山脳病院の慰安会で舞うぽん太を見て歌に詠んだのも、蝶よ花よと皆の羨望を一身に浴びていた10代の可憐なぽん太でなく、清兵衛と結婚し「鹿島えつ」となり、生活のために寄席や地方巡業までこなし「ホラ、あれがあのぽん太だよ」と、口やかましい世間から好奇と憐憫の目で見られていた頃のぽん太なのです。それでも夫婦は13人の子供を養い、世の人々は「貞女ぽん太」と彼女を称えました。
もうひとつ、忘れてならないのは清兵衛の元妻・乃婦です。老舗の跡取り娘らしく、豪気で気風の良い人柄だったようで、あれほど実家の財産を食い潰し、揚句は贔屓の芸者と結婚し家を出た元夫に対し、彼女は毎月四百円もの大金を仕送り続けたといいます。心ない人々は乃婦の行為をせせら笑いました。しかし、どれだけ周りから嘲笑されようとも、3歳4歳の幼い頃から同じ屋根の下で共に過ごし夫婦となり、激動の時代のなか養子の身で老舗の看板を背負った夫の苦労も十分見てきた乃婦は、死ぬまで清兵衛一家に送金を続けたといいます。
どれだけ落ちぶれようと、女たちは清兵衛を支え見捨てはしませんでした。それは持って生まれた彼の徳なのでしょうか。それとも彼女たちだけが知っている、ほとばしる情熱と妙に冷めた気分が紙一重となったような清兵衛の抗いがたい魅力なのでしょうか。あるいは陽気の底に潜む陰りと憂欝を抱えた人間に対する、本能的な母性なのか。人の気持ちは他人にはわかりません。外野があれこれ詮索しても、しょせん本人同士にしかわからないことです。
清兵衛は大正13年、関東大震災後の吹きさらしの能舞台へ体調不良のなか無理して出演し、それがもとで帰らぬ人となりました。五十八歳でした。翌年、清兵衛の後を追うように、ぽん太も45歳で他界しています。
