コラム
日光・足尾地区インフラ・ツーリズム
少し前、インフラ・ツーリズムなるものに参加してきました。聞きなれない言葉ですが、栃木県立博物館友の会が企画し、日光・足尾地区に残る近代になってから(明治以降)に作られた「インフラ」に特化した歴史的建造物を巡るという一風変わったツアーです。
しかし、これが非常に興味深い!それらは社会科の教科書に載るような、国宝級の歴史的建造物ではありません。作った人間の名前など記されない橋梁、砂防ダム、自家発電所などなど、ただひたすらに地域の人々の仕事や生活を支え、安全を守り、あるいは国家事業の基盤となり、風雪に耐えつつひっそりと朽ちていきながら、静かに背後の風景に溶け込んでいます。ただその歴史をひとたびめくれば、近代の歴史を動かした偉人や企業、その背景にあった社会情勢や国際事情、明治の開国以来、急速に近代化した日本の姿、そこから生まれる様々な光と闇の部分など、濃厚なドラマが透けて見えてきます。
今回のツアーは足尾と日光が中心でしたが、特に足尾銅山はかつて東洋一の大銅山と呼ばれ明治から昭和初期にかけて日本の近代化を支えてきました。また日本で初めて公害が社会問題化した足尾鉱毒事件の舞台となった土地です。そんな足尾地区は、まさに土木遺産の宝庫でした。
以前、ある出版社から足尾銅山についての記事を依頼され、書かせていただいたことがあります。その際は足尾銅山の所有者・古河機械金属株式会社様の広報室にも取材し、快く応じていただきました。
「皆さん、古河とその原点・足尾銅山の歴史に誇りを持っているんだ」と強く感じたことを思い出します。
■以下、いちご出版『栃木SERECTYON vol.Ⅱ』より抜粋
-産業遺産と環境のまち「足尾銅山」-
日本近代化の光と影 東洋一の銅山都市
栃木県西部、渡良瀬川上流部域にある足尾銅山の採掘は、すでに16世紀中には始まっていたと考えられている。徳川幕府の御用銅山にもなっていたが、なり、江戸時代末期には廃山同然となっていた。
足尾を蘇らせたのは、後に古河財閥(現・古河グループ)の創始者となる古河市兵衛である。京都の貧しい豆腐屋の次男として生まれた市兵衛は苦労して身を立て、やがて天性の商才を発揮していく。日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の信頼を得て資金援助を受け、明治10年に足尾銅山を買収、経営に乗り出した。周囲から「終わった山」と見られていた足尾だったが、可能性を信じ諦めなかった市兵衛は明治14年と明治17年、相次いで大鉱脈を発見した。
以後、市兵衛は足尾銅山の採掘に当時の最先端の採掘技術を導入していく。明治23年、生産性を上げるため町内に国内初の水力発電所を作り、電気ポンプと電気巻揚機を設置して運搬輸送の効率化を図った。さらに明治26年には、ベッセマー式転炉による錬銅法の実用化に日本で初めて成功し、高品質の精銅の製造を可能とする。明治後期から昭和初期までが足尾銅山の最盛期で、日本の銅産出量の40%以上を産出していた。大正5年には足尾の人口は4万人近くに達し、県都・宇都宮に次ぐ県下第2位の人口規模を誇る鉱山都市へと成長したのである。
大躍進の一方で、足尾の影の部分もまた濃くなっていく。銅山の発展とともに、精錬所の煙突から発生する亜硫酸ガスの煙が、足尾周辺の山々の草木をすべて枯らしてしまった。さらに採鉱や精錬の過程で発生する廃棄物を含んだ土砂が渡良瀬川に流れ込み、洪水のたびに下流域の田畑が汚染され、農作物に重大な被害をもたらす事態となった。田中正造の運動などで後世「足尾鉱毒事件」として知られる、わが国最初の公害問題が表面化したのだ。
政府は「鉱毒予防工事命令」を発令し、何度かにわたり堆積場や沈殿池といった、公害防除施設の建設を命じた。これを受けた古河鉱業株式会社(現:古河機械金属株式会社)は巨費を投じ工事を完遂するが、排水対策はある程度の成果を得ても、煙害対策は不十分だった。それから60年近くが過ぎた昭和31年、長い試行錯誤の歴史を経て、古河鉱業は「電気集塵法」と「接触脱硫法」を応用した脱硫技術を世界で初めて実用化し、亜硫酸ガスの大幅な排出削減に成功したのである。そして、足尾の地で独自に開発されたこの技術は、現在もなお国内外において、環境負荷を抑えるシステムとして導入されているという。


