有限会社ユーアンドエス 代表取締役/ライター 恩田すみえのホームページ

コラム

2025
10 / 15
09:00

グループホーム

グループホーム

 知人が開設したグループホームを「手伝ってほしい」と言われ、今年の春から「世話人」という立場でサポートしています。最初は「福祉の経験も資格もないし、そこまで関わる時間も精神的余裕もない!」と断りましたが、私の「断り切れない性格」を見通しているのか、粘りに粘られ「出来る範囲で」という条件で引き受けました。それで週に12回、朝食を作りに行っています。

 

 一般の住宅をリフォームしたので、部屋数は少なく4部屋しかありません。そこに現在2名の方が入居しています。軽度の知的障害を持ったH君はまだ19歳の男の子で大手企業に就業しており、50代前半の男性Aさんは社会に出てからストレスにより精神障害と認定され、今は就労支援施設で社会復帰の訓練中です。

 

 実際に会ってみると、二人とも自分と何も変わらないごく普通の人たちでした。一緒のテーブルで向き合って3人で朝ご飯を食べた後、あと片付けをして「行ってらっしゃい」と送り出すまでの仕事なので、当初は割り切って言われた仕事だけ淡々とこなそうと考えていました。ところが、たとえ週に12回の担当でも「情」というものは移るものです。

 

 アニメ好きのH君とは「鬼滅の刃」の話で盛り上がり、Aさんは年齢が近いこともあり、小さい頃見たテレビの話や同じ趣味の登山の話、時事問題についても話します。ただ、時々里帰りに自宅に戻るH君とは違い、Aさんは諸事情で里帰りが叶わず、入所以来、就労支援施設に出向く以外はグループホームを出ることはありませんでした。

 

「これじゃあカゴの中の鳥だよ。気分転換に外へ連れ出してあげようよ」と、施設の代表に訴えました。しかし回答は「入院生活も長く体力も落ちているから、まずは自発的に外に出て散歩をして体力をつけることから」というものでした。Aさんが「朝食に納豆があるといいですね」と言うので「納豆は安いし体にも良いから、朝食メニューに加えてほしい」と伝えると「納豆が食べたいなら自分の小遣いで買ってもらう。このグループホームは自立を促す場所だから、自分の希望は自ら行動して自ら叶える経験が必要なんだよ」と諭されました。

 

 そこで一計を案じ、「私の会社が請負っている物流倉庫の仕事を体力づくりの一環としてやってもらう」という名目で、土曜日にAさんを車に乗せ、現場である倉庫へ連れて行ったのです。車窓から流れる景色を好奇心いっぱいの目で追いながら「しばらく見ないうちに、こんなに街は変わったんですね」とつぶやくAさん。「そうだよ、世界は常に変化してる。外に出るって楽しいでしょう」と私。倉庫に着いて、そこで2時間ほど荷物仕分けの作業をしてもらいました。Aさんは汗をかきながら「楽しいです。こういう仕事は好きです」と、生き生きと動いていました。帰りにセブンに寄ってガリガリくんのソーダ味を食べて、幸楽苑でラーメンと炒飯セットをご馳走すると「美味しい!入院以来はじめてガリガリくんとラーメン食べました」と、心から喜んでいる様子でした。

 

 しかし、良かれと思って行ったこれら一連の行為が大きな問題となりました。私の行為は「障害者を無償で働かせた」と取られかねないというのです。なるほど、行政の解釈はかくも現場の感覚とかけ離れ、かくも融通が利かないものであることをつくづくと思い知らされたのです。

 

 でも、あれからAさんに変化が起きました。自分のやりたい仕事を具体的に主張するようになり、就労支援施設と相談員さん、グループホームの代表で話し合った結果、本人の希望を尊重し、Aさんは従来とは別の作業に就くことになったのです。そして部屋にこもり外出しようとしなかったAさんが、新しい現場で使う軍手を買うために数キロ先にあるウェルシアまで自らの足で歩き、おまけに納豆も自分で買い求め食べるようになりました。

 

 入居者2名の小さな施設でさえ生身の人間が暮らす以上、大小様々な問題が起こりその都度考えさせられます。たとえ小さな変化でも、それがボジティブなものであれば大きな希望となります。そして何かの縁で関わった以上、目の前にいる人たちの幸せを願わずにはいられません。

 

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10月の3連休の中日にグループホームの庭でバーベキュー大会が開かれました。施設の代表が庭に小さな畑を作り、そこに植えたサツマイモも収穫します。前日の雨とうって変わり秋晴れの下、スタッフやボランティアの人たちと共に、炭をおこし肉や野菜、収穫したサツマイモを焼きました。ご馳走に入居者の皆さんも大喜びでした。

 

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 みんなで収穫したサツマイモ

 

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地域のボランティアさんも大活躍

 

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鮎の塩焼きも登場

 

2025
10 / 14
02:30

時代の大きな転換期、20年前の想いをあらたに

ー時代の大きく変わろうとしている今、ちょうど20年前の37歳の時に備忘録として書き留めておいた文章をアップしておきます。 

 

「有永明人先生の思い出/20053月末日 記」

 

 20053月中旬、私は数年ぶりに学生時代を過ごした山形県庄内地方に向かっていた。当時お世話になったゼミの教授、有永明人先生の退官記念最終講義に出席するためだ。当日、東北地方は真冬並みの寒波に覆われ、3月初めの吾妻連峰の谷や峰は春の片りんさえ見えない深い雪に埋もれていて、早春の陽にキラキラ光る残雪の山を見ることは叶わなかった。

 

 電車が山形市を過ぎ、さくらんぼで有名な東根付近にさしかかると、ひときわ真っ白な頂をもつ山が左側の視界に大きく入り込んでくる。「月山」だ。よく霊山とか死者の集う山とか形容されるが、頭上に厚い雪の層を戴き月明かりに厳かに浮かび上がる月山を目の当たりにすれば、誰でも言葉を慎むだろう。月山は今も変わらず、静かに見る者を圧倒していた。

 

 大学に入学して初めて、私は福島県を越えた。入学した年は昭和63年度、昭和の最後でバブルが崩壊する前夜だ。

 

 生まれてから成長期にかけてちょうど高度成長期やバブル経済期と重なり、子ども時代にそれらのエキスを一身に浴びて育った世代の私たちに、大人たちは(借り物の)理想やお手本を与え、それを手本とすれば豊かな人生が保障されると吹聴した。いまや、あらゆる価値観やモデルは崩壊しひとつの時代の終焉を見届けた私たちは、なかば呆然となって、もしくはあえて目を逸らし気付かぬふりして時代の過渡期に立っている。

  

「世界に冠たる東北の森林」

 「庄内浜で釣りをしながら世界を視る」

 

 これがゼミの間にどちらか一度は聞くことになる有永先生十八番のセリフだった。生粋のアウトローでアナーキストでロマンチストな先生との出会いは衝撃的で、一年生のときの初講義でいきなり打ちのめされてしまった私は、「四年生になったら絶対にこの先生の研究室へ入る」と心に誓った。

 

「日本は世界有数の森林国なんだ。国土の67%が森林なんだよ。世界中どこの国もかなわない。とくに、この東北地方の森の豊かさは世界一だ。ボクのいう豊かさは量的なものじゃなく、樹種の多さと分布の多様性だ。ボクの生まれは九州だけど、東北の日本海側に来てその質的豊かさに心底驚かされた。日本人はヨーロッパの人々に比べ森林を知らない…と言う人がいるけど、例えばね、東北の人ほど多種の山菜を多様に食べる民族は他にいないね。山野草を利用する食文化と食生活の多様さこそ、東北人がその歴史を通じて豊かな森林観を形成してきた証だよ」

 

  小さい頃から「お山はいいなあ。お山のそばに住みたい」という言葉を口にし、母親に言わせれば遊園地より山に連れて行くほうが喜ぶ子どもだった私は、大学時代ワンダーフォーゲル部に所属し、蔵王連山、朝日連峰、飯豊連峰、吾妻連峰といった山形、新潟、福島にまたがる山々を仲間たちと縦走した。当時は今のようにおしゃれで高性能なアウトドアウェアもグッズも充実しておらず(都会では売っていたのかもしれないが、当時の山形にはそういう店はなかった)、デパートのワゴンセールで買ったTシャツや綿シャツにジャージをはいて重たいキスリングを背負い歩いていた。

 

 通称ワンゲルの活動はGW明け、雪女伝説で名高い笹谷峠から蔵王の霊峰熊野岳まで縦走する第一次錬成合宿からスタートする。東北の山の四季は夢のようだった。二次錬、三次錬と続くうちに山々は魔法のように変化していった。五月半ば、稜線にも遅い春が到来し柔らかい産毛に包まれた生まれたばかりの黄緑色の新芽がふんわり木々を覆い始める。

 

 「ホラ、山がうっすら笑っているように見えるだろう」

 この情景をそんなふうに表現した先輩がいた。本当に山は笑っていた。

 

 六月ともなれば、稜線は新緑の海となる。ブナの林は爽やかな6月の光を反射し、美しい黄緑のグラデーションを造りながら初夏の風に波打っている。ナラやトチノキ、カバにカエデ、あらゆる広葉樹がまだ柔らかい若々しい葉を伸ばし、存分に光と二酸化炭素を体内に採り入れ命の元を生成している。遠くでカッコーの声がする。木々が生み出す新鮮な空気をもらって呼吸する。静寂のなかに聴こえるのは、山を抜ける風の音だけだ。気が付くと、私はこの空間と不思議な一体感のなかにいた。

 (そうか、自分は生かされている。これは山の神様の贈り物なんだ…)

 

 高度経済成長にともない1950年代から始まる国の拡大造林政策によって、かつて豊富にこの国に存在した広葉樹天然林の大規模な伐採が敢行された。その跡地にスギやヒノキの単一樹種による一斉林が造られると様々な樹種で構成されていた広葉樹林帯は姿を消し、山は住宅用材という資本提供の場と化していく。

 

 「それは結果であって、根本的要因はもっと根深いところにある。いいかい、この国の林業は薪や炭でもっていたんだ。日本人は長い間森林から生産される下草や間伐材を日々の生活に使う飼料として利用してきたんだよ。そこにはその土地ごとの自然条件を生かした多様な森林の利用、つまり森林文化があった。日本人が昔からスギやヒノキを大量に造林してきたなんて思っちゃいけない。戦前までは、せいぜい一番利用しない谷地みたいなところにほそぼそとスギを植えていただけなんだ。ところが戦後エネルギー革命が起きて、山村の隅々までプロパンガスや石油が浸透すると燃料としての薪や炭が生産されなくなった。そうすると、生活の糧として森林は必要なくなる。この時から山里の生活と森が切り離されていったんだ」

 

 そして私たちの精神も生活も、森や木と同じだ。巨大資本とその申し子のマスメディアは戦後数十年かけて、多様性に富んだ各地の暮らしや知恵や文化、人間の心までもブルドーザーのように根こそぎ解体し画一化してしまった。本来、北から南に長い日本列島は地域ごとに衣食住とも変化に富んだ生活様式を保っていたはずなのに、今では日本の地方はどこに行っても、同じような景色になってしまった。そして多様性を失ったことと引き換えに、私たちはどこに住んでも一定の平均的で、便利な生活を送れるようになった。

 

 (先生、この国の森はどうやったら守れるの?)

 「先生は学者だからね。歴史や事実を解明して、世の中のからくりやインチキを暴くのが仕事だ。すべてはそこから始る。事実を踏まえて、課題を提供するんだよ」

 

 先生はいつもそういって笑った。私にはそれで十分だ。先生が大きな宿題を与えてくれたことは分かっているから。生きているうちにすべてを解決することは不可能かもしれない。それでも資本主義という旗印のもと、飽くなき欲望を追及し生きてきた私たちが負うべき義務なのだろう。

 

 「でも確かに言えることは、かつて日本の里山で行われていた薪炭材の生産と薪炭林の施業が、結果的に森林を上手に維持・管理していたってことだ。そのなかでは森林の再生は伐根でなく、萌芽が基本となる。つまり、森林を15年から20年サイクルで「弱度に、しばしば伐採する」ことで里山の森林は世代的に若返り、健全な状態が維持されたってわけだ。これは日本が世界に誇る伝統的な森林のリサイクル・システムなんだよ。だからね、山で生活する者たちが森林を自分たちの手に取り戻さなくちゃならないんだ。衣食住の基本的な生活用資材を地域の自然に依って、もう一度リサイクル・システムを造り出すことだ」

 

 市場原理って、絶対的なものなのか?否、違う。それは誰かが作り出した、誰かにとって都合の良いシステム。大切なのは自分の自由な心で感じること、そして自分の頭で考えることだ。真実は自分自身の中に、きっと人の数だけ存在する。

 

「君の感性はすばらしいし、文章もなかなか上手いけれど、科学的分析が足りないね。感性だけではダメだよ。事実をきちんと論理的に分析しなくちゃいかん」

 先生は私がレポートを提出するたびにそう言った。

 

  先生の講義はずっと私の中の特別室に大切に保管されていて、今なお色褪せず私を揺さぶり突き動かす。卒業時、クラスの大半が地元にUターンし公務員に落ち着いたなかで、ダメ学生の私はその道を選ばなかった。けれども、どんなにまわり道をしても、私はいつか原点に帰ろう。どこにいても何をしていても、自分の中の宝石は、決して曇ることのないよう密やかに磨いていようと思う。それは子ども時代に感じた山や自然への思いであり、丸坊主に伐採された山を見たときの、十代のあの日の違和感であり、そして先生から受けた教えの数々だ。

 

 「君は小論文だけで大学に入学したんだな?まあ、それもいいだろう。真実に近づく入口は、まず感性から入ることだからね。でも勉強が足りん」

  先生、私はあいかわらず成長していないでしょうか?

 

 

 

 

 

2025
10 / 13
14:45

高市早苗氏の総裁就任を受け、日本の国土を想う 

高市早苗氏の総裁就任を受け、日本の国土を想う 

  先日、自民党総裁に高市早苗氏が就任しました。女性初であることも喜ばしいですが「景色を変える」という言葉に大きく期待しております。自分の中では、小泉進次郎氏の就任は絶対にあってはならないことでした。 

 

 彼は環境大臣だった2020年、国立公園内における再生可能エネルギー施設設置の規制緩和を促進する必要性を表明しました。それを受けて、2022年の自然公園法施工規則改正に伴い太陽光、風力、地熱などの再生可能エネルギーの設置が許可されやすくなり、結果として現在問題となっている釧路湿原のメガソーラーなどのプロジェクトの基盤が整備されたと言われています。

 

  覆水盆に戻らず…という言葉が示すように、失ったものを再生することはほぼ不可能です。この国を構成する大切な要素、土地や自然や精神を断固として守らなければならないと思います。これらは三つ巴ですから一つが崩れると連鎖的に他の要素も崩れ始め、やがて国家としての体を成さなくなります。

 

 もう物心ついた時から誰に教わることもなく、自然とのバランスを考えず経済活動を優先するこの国の行く末に「何か違う」と本能的な違和感を抱いていました。自分はこれらの問題に関しては感情的です。深く悲しみ憤ります。その部分は非常に女性的であり、逆に女性性を大いに出して良いと思っています。まずは己の違和感や感情を原点としそこを大切にしながら、これからどうするべきか、知恵を出し合い考えるのです。それゆえ、これからの時代を担う女性リーダーの誕生を嬉しく思います。

 

 

 

2025
10 / 04
14:45

日米台国際桜交流会と安倍昭恵さん

日米台国際桜交流会と安倍昭恵さん

知人から「安倍昭恵夫人が来るから参加して」とお誘いがあり、物見遊山でヒョコヒョコ上野の精養軒まで「日米台国際桜フォーラム」という催しに参加してきました。桜という名称と名誉会長である昭恵夫人のフワっとしたオーラでカモフラージュしつつ対中国に向けて日米台の関係強化を訴える、なかなか硬派な催しでした。

 

 

昭和天皇は皇太子時代の1923(大正12)に台湾を訪問され、現地で桜やガジュマルなどを記念植樹されています。その桜の苗木の日本里帰りを実現させようと、令和に入ると台湾財界や文化界の著名有志が中心となり、東京と台北の地で「苗木目録寄贈式」が日台関係者によって開催されたとか。さらに2024年に「一般財団法人 日台国際桜交流会」という団体を設立し、「里帰りした桜の苗木を皇室ゆかりの地や神社仏閣等に植樹しながら、世界各国との親睦を深め文化交流及び経済交流の輪を広めることを目的としている」とパンフレットには記されていました。他方、パンフレットに記載されてはいませんが、文化や経済と合わせ台湾と日本の政治的、軍事的結びつきもより強化していきましょうという意図が自ずと透けて見えてきます。

 

会の名誉会長で昨年95歳で亡くなった安部元総理の母・洋子さんの跡を受け、昭恵さんがその任を引き継いだそうです。今回、生の昭恵さんを初めて間近から眺め肉声を聞きました。安倍元総理がご存命中は首相夫人らしからぬ自由な言動が何かと物議をかもしましたが、ひとりの人間として女性として見た場合、素の昭恵さんは邪気というものを感じさせない実に可愛らしい女性でした。

 

昭恵さんは挨拶の途中で安倍元総理に話が及ぶと、声を詰まらせ涙声になっていました。地元の支援者たちから地盤を引き継いで政界進出をという声も多かったようですが、彼女自身は「自分は政治家には向かない。政治とは異なる立場で支えていただいた皆様に感謝しつつ、自分に出来ることをせいいっぱいやっていく」と決意を語っていました。昭恵さんだけでなく、このフォーラムに登壇した方々は等しく安倍元総理を心から偲んでいる様子でした。前台湾駐日代表の謝氏も米国の政治学者であるエルドリッチ氏も、世界が難局を迎えるなかでトランプ大統領やプーチン大統領とも等しくコミュニケーションを取れた政治家・安倍晋三を失ったことの大きな損失を嘆き、人間・安倍晋三の大らかな人柄に想いを馳せていました。

 

 私自身は自民党の絶対的な支持者ではありません。ただ、自民党の議員のなかで安倍元総理だけは何かが違って見えていました。安倍政権への賛否両論はあります。特に政治家はすべて結果で判断されてしまいますが、その時々に誠意と情熱をもって物事を判断したのか否かは各々の政治家によると思います。少なくとも安倍元総理の中に日本国に対する誠意と情熱の灯の揺らぎを認めていたのは、私だけではないと思います。

 

 

彼が凶弾に倒れた2022年夏の参院選、あの日の2週間前に宇都宮二荒山神社の鳥居の前で安倍元総理による応援演説があり、私も見に行きました。総理の座を降りた安倍さんは「これからは自由に色々発信していきたい」と清々とした表情で満面の笑みをたたえ、元気に語っていました。それから間もなくのことです。信じがたい突然の訃報を聞き、真っ先に心をよぎったのは「自民党の良心が亡くなった」という思いでした。

 

 

ファーストレディ時代、一挙手一投足がマスコミのやり玉にあげられる昭恵さんを、安倍元総理は身を挺してかばっていました。たとえ世界を敵にまわしても、自分にとって一番大切な人を守ろうとする気概の無い男性に、国家を守れるはずがありません。昭恵さんは安倍元総理にとって、かけがえのない存在だったことでしょう。

 

 

こういうことを言っていると「なら、世界を敵にまわしてもお前を守ってくれる男性はいるのか」とやぶへびになるので、お二人の話はこのあたりで終わりにするとしましょうか。

 

2025
09 / 24
12:45

がん患者と共に

がん患者と共に生きる

 先日、友人である宇都宮市議の茂木ゆかりさんに誘われて、「リレー・フォー・ライフ・ジャパン2025とちぎ」に行ってきました。茂木市議から大会名を聞いた時は「??」という感じで、「夜、壬生の陸上競技場で夜通し歩いていますから、いっしょに歩きに来てください」という言葉だけが頭に残り、深くも考えず「2時間くらいなら付き合うよ」と軽く承諾しました。競技場へ着いたのが20時半くらいで、そこで説明を受けて初めて大会の目的と意味を知った次第です。

 

 

1985年、一人の医師がトラックを24時間走り続け、アメリカ対がん協会への寄付を募りました。 「がん患者は24時間、がんと向き合っている」という想いを共有し支援するためでした。ともに歩き、 語らうことで生きる勇気と希望を生み出したいというこの活動を代表するイベントは、2024年現在において、世界36か国で活動、約1,800か所で開催され、年間寄付は約146億円にのぼります」(リレー・フォー・ライフHPより引用)

 

 

思えば、自分も7年前に父親を癌で亡くしています。79歳でした。まず黄疸が出て、かかりつけの医師からすぐに検査するよう言われ、結果はすい臓癌のステージ4で余命は半年と告知されました。それは本人と家族にとってまさに青天霹靂で、ある程度の知識があればすい臓癌が何を意味するか理解できます。医師に今後の治療をどうするかを聞かれ、私たちは「何もしない」ことを選択しました。抗がん剤や放射線治療をせずに自宅で過ごすことです。しかし本人は「奇跡が起きることもある」と考えていたのか、意外にも楽観的でした。たぶん、亡くなる数時間前までその希望は本人の中にあったと思います。

 

癌が発覚してからも特に痩せもせず痛みもなく食欲も旺盛で「もしかしたら誤診か?」と周囲が思うほど、元気そのものでした。 「また行けるようになった時のために」と、趣味の釣り道具の整備も怠りませんでした。ごく普通に穏やかな日常生活を送っていましたが、がん告知から5ヵ月ほど経った頃、何の前触れもなく吐血したのです。その日を境に、父親の身体は確実に最後の日へ向けて舵を切ったように思います。入退院を繰り返すようになり、病院から戻る度に確実に身体は変化していました。退院すると「家はいいなぁ」と嬉しそうにはしゃぎ、大好きなラーメンを平らげはしますが身体が疲れやすく重くなったようで、手足が思うように動かないのです。

 

亡くなる一か月ほど前、7月の梅雨の晴れ間の爽やかな青空が広がった日、私の運転で奥日光へドライブに行きました。湯元湖畔の駐車場に車を止めましたが、駐車場から湖畔までの50mを歩くことができず、車のバックドアを開けそこに座らせました。それでも湯ノ湖から吹く風を全身に浴びながら「山は気持ちいいなあ」と、ご機嫌な様子でした。

 

8月に入り最後の入院の時、担当の医師から長くて今月いっぱいだと伝えられ、在宅医療を勧められました。家に連れ帰る際、病室を後にする時、ベッド脇の棚に閉まってあった糖尿病のインスリンの注射類を私と母親が「もうこれを使うことはない」と粗雑に手提げ袋に放り投げると、驚いたことに父親が「そのうちまた使うんだから、ちゃんと保管しておけ」と怒るのです。「この人はまだ諦めていない」と、胸が締め付けられました。

 

もう食欲はほとんどなく、トイレに行くのもやっとという状態でしたが、「何とかもう一度、外の世界を見せたい」と猛暑の合間の曇りの日を狙い、「お父さん、今日は涼しいから鮎を食べに行こう。車まで歩ける?」と聞くと、父親は嬉しそうに「おお、行きたいな」と答えました、おむつを履かせ、自分で杖を突きながらやっとの思いで私の隣、いつもの助手席に座ってくれました。喜連川の道の駅の鮎小屋で「旨い、連れて来てくれてありがとう」と言いながら鮎の塩焼きを1匹食べたのが、最後の食事になりました。

 

癌という病が残酷なのは、最終盤になると1日ごとに身体のあちこちの組織が順番に機能を停止していく様を、本人と家族が自覚せざるを得ないことでしょう。昨日まで歩けたのに、今日はもうベッドから起き上がれないのです。幸いなことは、すい臓癌特有の痛みがまったく出なかったことです。家に戻って一週間後の2018816日の送り盆の日、その日は夕立があり雨上がりの空の雲は夕日に照らされ、空一面が柔らかなオレンジ色に染まっていました。そしてそれは下界の世界全体を同じような優しいオレンジ色で包みこみ、もし極楽浄土があるのならこんな色彩なのだろうかと思ったことを覚えています。その晩、今までとはケタ違いの大量の吐血をし、父親は初めて悔しそうに「なんだよ、これで終わりなのか」という言葉を漏らし、それから5時間後に息を引き取りました。

 

癌という病を抱えながらも、亡くなる直前まで父親はうろたえもせず周囲に当たることもなく、希望を持っていつもの日常をいつもの心持ちのまま過ごしました。そういった最後の姿を私たちに示してくれた父親を、娘として誇りに思います。

 

 

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到着したら降っていた雨も上がり、傘をささずに歩くことができました。茂木ゆかり宇都宮市議と共に。30代の若い女性である茂木市議は活発に地域を巡りながら、市民の声に耳を傾けています。

 

 

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暗闇に浮かび上る「HOPE」の文字。がん患者さんやその家族、支援者さんやご遺族の方々がそれぞれの「想い」を書き留めた袋にLEDを入れて、トラックの周囲や観覧席をライトアップしています。

 

 

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大会終了後、LEDの入った袋は毎年鹿沼市の薬王寺にてお焚き上げをし、皆さんのメッセージを空へと届けるそうです。

 

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