コラム
永遠の美女 新橋ぽん太
昨今はAIの進化で画像や動画処理の技術も飛躍的に進化したようです。YouTubeを見ていると、明治や大正時代に生きた人物の古写真を元にAIを使って動画を生成し、まるで本人をビデオカメラメラで撮影したかのようなリアルな映像がたくさん流れています。以前から古い時代のモノクロ人物写真を見るのは好きだったので、新選組の隊士や幕末の志士たちが笑ったり走ったりする様は実に自然体かつリアルで思わず見入ってしまう。AIすばらしい!こういう技術は大歓迎です。
古写真の中に、明治大正期の美女たちを集めた写真集などがあります。だいたいが当時の花街界隈で人気を集めた芸妓さんの写真が多く、彼女たちは今でいう国民的アイドルのような存在でした。アイドルのプロマイドと同じように、彼女たちの姿が印刷された絵葉書が販売されていたようですね。
その中の1人に「新橋ぽん太」という芸妓さんがおりました。彼女は新橋・玉の屋の芸者で、本名は「谷田えつ」といいます。当時の新橋の並み居る美妓たちをおさえ、ナンバーワンの呼び声高かったのが「ぽん太」です。世間から「西の富田屋八千代、東の新橋ぽん太」と謳われ、一世を風靡しました。ちなみに富田屋八千代とは大阪南地の富田屋(とんだや)の芸妓で、同じく美貌と芸と粋で人気を博した名妓です。(かの松下幸之助も八千代に声をかけられ一言も話せず顔を赤らめた、という逸話も残っています)
私がぽん太を知ったのはだいぶ前、幕末から明治の日本の風俗を撮影した写真集を本屋でパラパラめくっていた時です。おそらく10代であろう美しい二人組の娘の写真に釘付けになりました。一人は優しげな下がり眉と、二重瞼の憂いを帯びた大きな目が印象的な現代的美人で、口元にうっすらと笑みを浮かべていました。もう一人はふっくらした頬がまだ少女のような幼さを残しつつ、こちらを見つめる黒目がちで切れ長の大きな目がまるで日本人形のようでした。でも口元は、隣の女性とは対照的にキュっと閉じられていて、その清らかで凛とした表情が彼女の内面の強さを物語っているようでした。
それが、ぽん太でした。ただ、その時はまだ携帯どころかインターネットさえ普及していなかった頃で、ぽん太についてそれ以上調べることもせず、本を閉じてそのまま棚に戻しました。でも、その後も自分のなかに「ぽん太」という名前はずっと残り続けました。どうやらあの写真を一目見て、彼女に魅了されたようです。それからだいぶ後になって、彼女が東京一ともてはやされた名妓で、時の豪商・鹿島清兵衛の愛妾であり、写真道楽が過ぎて養子縁組先の鹿島家から追い出された清兵衛の正式な後妻となり、その後たいへんな苦労をして清兵衛を支えたということを知りました。
東京日本橋に、かつて江戸時代から続く鹿島屋という酒問屋を営む豪商がありました。広大な土地と巨万の富を有し、江戸時代に商人ながら苗字帯刀を許されたという事実からしても、そうとうな財力だったのでしょう。江戸十人衆の一人に数えられ、その仲間には三越の前身である越後屋、大丸、白木屋(東急)などがいたといいます。明治の世を迎えると鹿島屋は七代目夫妻が早世し、残されたわずか13歳の長女娘・乃婦(のぶ)が家業を継ぐごとになりました。当時、鹿島屋は同族であった大阪天満の酒問屋鹿島屋から養子を貰っており、それが当の清兵衛です。
明治20年の初め頃、清兵衛は最愛の長男を突然亡くしました。江戸から明治になり刻々と移り行く時代のなかで、養子の身で老舗の大店を維持することに苦心していた清兵衛にとって、息子の死は大きな痛手となったにちがいありません。そんな傷心のさなか、清兵衛は先代が手に入れ、蔵の中で埃まみれになっていた写真機を見つけます。気分転換でも、という周囲のすすめもあったといいますが、当時まだ特権階級にしか許されていなかった写真という高級な趣味に、清兵衛は次第にとり憑かれたようにのめり込んでいきます。ちょうどこの頃、日本政府の招きで建築家であり写真家である英国人のバートン博士が来日していました。清兵衛は博士から、熱心に写真の理論と技術を学びました。
はじめは東京近郊に写真機を担いで行って、珍しがって集まる見物人を撮影する日々でしたが、次第に清兵衛の技術と情熱は、趣味の領域を逸脱していきます。彼の写真は当時の常識をはるかに超えていました。有名なのが、九代目市川団十郎の等身大の舞台写真。このサイズは当時の技術では世界にも類がないそうです。他にも明治天皇の銀婚式のお祝いとして献上された超巨大な富士山の写真など、鹿島屋の財力をバックに、外国から最新式の大型の機材を次々取り寄せ撮影する作品は、とにかくスケールの大きなものばかりでした。おまけに両国川開きの際に行った我が国初のCM入り仕掛け花火の演出など、技術だけでなく清兵衛は監督兼プロデューサー役もこなし、彼の多才多芸ぶりはあらゆる方面で発揮されたのです。
清兵衛は家業を妻と使用人に任せきりにし、今の銀座六丁目界隈に豪壮にして最先端を行く写真館「玄鹿館」をオープンさせました。坪数159坪、内部は回り舞台になっていて、夜でも撮影ができるように2500個もの電燈が備え付けてあったといいます。芝居小屋から大道具、小道具、衣装係を雇い外国人のための通訳まで置いたそうで、写真館というよりちょっとした小劇場に近く、そこに芸者や役者が毎日押しかけ盛大に宴会をやっていたといいます。そのため清兵衛は世間から「写真大尽」「今紀文」と呼ばれていました。(今紀文とは江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門になぞらえたあだ名)
清兵衛がぽん太と出会ったのも、写真が縁でした。おそらくぽん太が14、15歳の頃でしょうか。キリンビールが公募した「美人写真」のモデルとして彼女を紹介されたのが、二人のなれ初めと言われています。以来、清兵衛の行く所、必ずぽん太の姿がありました。清兵衛がぽん太に「お前は笑わないほうがよい」と言い含めたという話が残っています。だから彼女の写真には、笑った顔が無いのだと言われています。ぽん太が大輪の花としてまさに咲かんとしていた17歳の時、清兵衛は彼女を落籍しました。
歌人・斉藤茂吉が随筆『三筋町界隈』のなかで、その頃のぽん太の思い出を書いています。
「私は小遣銭が溜まるとここに来てその英雄の写真を買いあつめた。
そういう英雄豪傑の写真にまじって、ぽんたの写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃くうっているのもあつた。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折りにふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。ぽんたはそのころ天下の名妓として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということでしきりに噂にのぼった頃の話である」
精神科医でもあった茂吉は義父が経営する青山脳病院の慰安会で、すでに人妻となり歳を重ねたぽん太が舞を披露したときのことを思い出し、歌を残しました。
「かなしかる 初代ぽん太も 古妻の 舞ふ行く春の よるのともしび」(大正3年)
茂吉はぽん太が亡くなってだいぶ経った昭和11年の秋に、彼女が眠る多磨墓地に墓参りにも訪れています。茂吉も私と同じように、東京一と謳われた美女ぽん太の面影に生涯魅了され続けた一人なのかもしれません。その人の内面を語るようなキュっと結ばれた口元と、その嘘のない切れ長の涼やかな目元に惚れたのでしょう。そして、その後の彼女の生き様にも。
清兵衛が撮った写真が「美人絵ハガキ」となり全国に出回ったことで日本中の老若男女の憧れの人となったぽん太の人生は、ある時点からくっきりと色合いが違ってきます。度を過ぎた清兵衛の写真道楽に目をつぶってきた鹿島屋も、ぽん太を落籍するとさすがに黙っていませんでした。清兵衛はとうとう日本橋鹿島屋一族から養子縁組の解消を申し渡されます。清兵衛はそれを受け、手切れ金25万円を受け取り妻の乃婦と離婚し鹿島屋を出ました。(この夫婦には4人の子供がいたといいます)
世間が驚いたのは、天下の鹿島屋の旦那の座を追われた清兵衛とぽん太が正式に結婚し、後妻として納まったことでした。金の切れ目は縁の切れ目だと、さんざん貢がせておきながら男が落ちぶれるとアッサリ袖にする芸者は多かったことでしょう。しかもぽん太ほどの上等の芸者なら、お座敷に戻ることも他に勢いのある旦那を見つけることも十分できたはずです。でも、彼女は清兵衛と別れませんでした。以前、まだ結婚前の二人を偶然見かけた文豪・森鴎外が「病人と看護婦という印象」と書いています。これは作家特有の慧眼なのかもしれません。
鹿島屋の財力を失うと、清兵衛が手塩にかけた玄鹿館もまもなく破綻した。その後、夫婦は大阪へ引っ越し写真館を始めますがうまくいかず、再び東京へ戻り本郷で春木館という写真館を開業しました。しかしよくないことは続くもので、撮影のフラッシュに使うマグネシウムの爆発事故で清兵衛は右手親指を失ってしまいます。そのせいで、写真業を続けることをあきらめざるをえませんでした。それでも、もう一つの趣味であった能楽の笛が、彼のささやかな唯一の収入源となりました。(この笛も玄人の腕前だったそうです)
写真からの収入がなくなると、鹿島屋からの手切れ金とぽん太が芸者時代に覚えた三味線や踊りのけいこ代が一家の生活を支えることになります。当時のサラリーマンの月給百五十円に対し、ぽん太はけいこ代で五百円近く稼いでいたというのだから、まさに自分のキャリアで身を立て一家を支える「できる女」でした。さしずめ今なら、芸能界を引退したかつてのトップアイドルから歌やダンスのレッスンを受けるわけですから、けいこ代も相場よりかなり高く取れたことでしょう。
斉藤茂吉が後年、青山脳病院の慰安会で舞うぽん太を見て歌に詠んだのも、蝶よ花よと皆の羨望を一身に浴びていた10代の可憐なぽん太でなく、清兵衛と結婚し「鹿島えつ」となり、生活のために寄席や地方巡業までこなし「ホラ、あれがあのぽん太だよ」と、口やかましい世間から好奇と憐憫の目で見られていた頃のぽん太なのです。それでも夫婦は13人の子供を養い、世の人々は「貞女ぽん太」と彼女を称えました。
もうひとつ、忘れてならないのは清兵衛の元妻・乃婦です。老舗の跡取り娘らしく、豪気で気風の良い人柄だったようで、あれほど実家の財産を食い潰し、揚句は贔屓の芸者と結婚し家を出た元夫に対し、彼女は毎月四百円もの大金を仕送り続けたといいます。心ない人々は乃婦の行為をせせら笑いました。しかし、どれだけ周りから嘲笑されようとも、3歳4歳の幼い頃から同じ屋根の下で共に過ごし夫婦となり、激動の時代のなか養子の身で老舗の看板を背負った夫の苦労も十分見てきた乃婦は、死ぬまで清兵衛一家に送金を続けたといいます。
どれだけ落ちぶれようと、女たちは清兵衛を支え見捨てはしませんでした。それは持って生まれた彼の徳なのでしょうか。それとも彼女たちだけが知っている、ほとばしる情熱と妙に冷めた気分が紙一重となったような清兵衛の抗いがたい魅力なのでしょうか。あるいは陽気の底に潜む陰りと憂欝を抱えた人間に対する、本能的な母性なのか。人の気持ちは他人にはわかりません。外野があれこれ詮索しても、しょせん本人同士にしかわからないことです。
清兵衛は大正13年、関東大震災後の吹きさらしの能舞台へ体調不良のなか無理して出演し、それがもとで帰らぬ人となりました。五十八歳でした。翌年、清兵衛の後を追うように、ぽん太も45歳で他界しています。
国家を持たない人々
■11月~12月は物流の末端を担う弊社の繁忙期でコラムを書く時間と体力を失うため、むか~し勝手に書き留めたコラムを多少手直し掲載させていただきます。若さゆえの純粋さや反骨心も垣間見られ、なかなか心の琴線に触れると自画自賛しております(笑)
先日東京に用事があって出かけたとき帰りに新宿駅前のジュンク堂にふらりと立ち寄ったら、七階のエレベータを降りた真ん前に、たまたま「星野道夫」の特設コーナーが設けてありました。何気なく本を手にとって、結果として目が釘付けになりました。星野道夫をご存知でしょうか。もう故人ですが、彼がカムチャッカ半島でヒグマに襲われ亡くなったことを伝えるニュースを聞いたことをよく覚えています。それは1996年8月のことで、そのニュースではじめて「星野道夫」という動物写真家の存在を知りました。「そんな写真家がいたんだ・・」という程度に。
動物写真家がテントで就寝中にヒグマに襲われるという、その死がかなりショッキングな内容だったにも関わらず、その時は彼の作品を努めて見てみようとはしませんでした。だから星野道夫の作品をじっくり見たのは、このジュンク堂での特設会場が最初になります。星野氏はアラスカを拠点とし、アラスカから北極圏にまたがる自然や野生動物、そして極北の大地に一万数千年前から住みつき狩猟生活を営んできたインディアンやエスキモーの人々や文化を撮り続けた写真家でした。大変筆まめな人で写真と共に多くの美しい文章を書き残しています。
彼の撮ったカリブーやムースやグリズリー熊の写真を見ながらそこに添えられた言葉を立ち読みするうちに、私の周囲から文明が創り出す人工的な雑音は消えゆき、頭の中にアラスカの豊かで果てしない大地がいっぱいに広がり、そこに暮らす人々が私に語りかけてきました。星野氏が構えるレンズの向こうの動物たちの表情は限りなく優しく、誇り高いものでした。翼を広げた真っ白なシロフクロウは神様の化身みたいに威厳に満ち、巨大なグリズリー熊が地面に突っ伏して眠る顔は、まるで夢見るような祈るような表情でした。
星野氏の写真集やエッセイが並べられた隣に、関連本としてインディアンの本が置かれていました。19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカの西部開拓時代、インディアンたちにとっては部族の存亡をかけた苦難の時代でした。その時代を生きた当時の酋長やシャーマンたちの毅然と彼方を見据える深い眼差しと、雄々しい姿を伝える写真と言葉に心打たれ、星野道夫の本と合わせてそのアンソロジー(大好きな中沢新一の訳だったこともある)を思わず買い求めたのです。
まだ地球が最後の氷河期にあった約1万4千年前、ユーラシア大陸からマンモスを追って凍ったベーリング海峡を徒歩で渡りアラスカからアメリカ大陸へと広がっていったハンターたちがインディアンの祖先と言われています。彼らは私たちと同じモンゴロイドです。白人のコーカソイドがこの土地に入り込むのはそのずっと後、社会の授業で習ったとおり15世紀の大航海時代を待たなければなりません。インディアンたちの言葉は心の深い部分に響き、長い余韻を残します。時にズキンと胸に突き刺さる矢のように、時にくすんだ世界を洗い清める雨のように。
よく言われることですが、彼らは国家を持たない人々でした。部族はありました。ナヴァホとかアパッチとかミクマクとかスー族という大小の部族がかつて北アメリカに四百ほど点在し、それぞれの習慣と戒律を守り生活していたといいます。私の世代なら、ケビン・コスナー主演の映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」を観た人は多いのではないでしょうか。あれには、たしかスー族が出て来た気がします。
国家や君主や一神教のように、特定の何かを信仰する習慣を持たないインディアンは何より自由でした。彼らは部族ごとにテントを張りながら広大な土地を季節とともに移動し、自然に感謝し祈りを捧げ、動物や魚を狩り木の実を採って生活していました。国家や政府やもちろん貨幣を持たないわけだから、税金を納めるという習慣もなければ土地を所有するという概念もありません。白人によってインディアン社会に貨幣経済が導入される以前は、貧富の差による階級というのもなかったことでしょう。彼らの上に国家という目に見えない巨大なシステムがない代わりに、彼らはいつでも国家の向こう側の果てしない世界と直接つながり、その恩恵や脅威を直に肌で感じていたことでしょう。
彼らの精神は常に孤高であり、報酬を払って他人に守ってもらうとか食べさせてもらうという考えは微塵もなかったようです。母なる大地は所有する対象ではなく、昔からここで暮らしてきたインディアンが望み、一定のルールと感謝する心を忘れなければ、家族と部族が飢えることがない程度にはちゃんと食べ物を与えてくれる存在でした。そんな人々のなかへ、自称文明人と称する者たちが貨幣や所有や権利という習慣と概念を持ち込んで、それまでなんの問題もなくやってきたインディアンの生活を「野蛮だ」と否定し、自分たちの習慣を押し付けたわけですね。
印象深いのは、インディアンたちの他者や自分たちを取り巻く世界との関わり方です。日本国憲法には『国民主権』が明記されています。法治国家ではすべての国民は法の下に平等で、国民の権利は法の下に保証されます。自分たちの権利や生活を守ってもらうために、国民は国家に税金を払い、国家と契約するわけですね。だから「こっちは国にお金を払ったんだから、その分ちゃんと国民の生活を守って老後も保証してくれないと困る」という理屈になるのも当然です。たしかに筋は通っているけれど、インディアンの厳かな言葉と比べてみると、どうにも幼稚に聞こえるのはなぜでしょう。
たしかにインディアンが自由に生きていた時代のように、私たちは山で動物を狩り、川で魚を釣って自給自足の生活をすればいいというわけにはいきません。絶対に・・。自分自身も生まれてこのかた資本主義と貨幣経済にどっぷりつかり、国家と法というセキュリティーシステムに身を委ねてきました。でも、どこかで違和感を感じていました。それゆえ、自分たちと祖を同じくするインディアンの言葉に、どうしようもなく惹かれてしまうのかもしれません。彼らは私が生まれる百数十年ほど前までは、北アメリカの緑豊かなプレーリー地帯で馬を駆っていました。勇気と強さの印である鷲の羽根を頭に刺して。
その人々は、今はもういません。でも、人生との向き合い方、物ごととの関わり方は彼らが残した言葉から学べるはずです。以下、『それでもあなたの道を行け/ジョセフ・ブルチャック=編』よりインディアンの言葉を引用します。
「親愛なる兄弟、私はあなたのことが、魂の底からあわれな人に思える。私の忠告を受け入れて、ヒューロン族のもとから去ってくれ。なぜなら、私はあなたの人生の条件と私のそれとのあいだに、天と地ほどの違いのあることを見るからだ。私は自分自身や自分の生き方の主人としてふるまうことができる。自分の自由は完全に自分のものだし、自分のしたいことをする。私は部族の先頭を行く者であるし、その最後を固める者でもある。私は誰のことをも恐れてはいない。なぜなら、私はただグレート・スピリットによってだけ生きているからだ。ところが、あなたはどうだ。あなたは体も魂も、あなたより偉いキャプテンにゆだねている。あなたの総督は、あなたの処分を決めることができるし、あなたは、自分がしたいと思うことを実行するいかなる自由ももっていない。泥棒を恐れ、偽証を恐れ、暗殺を恐れている。あなたは自分より高い地位にある人々のもつ力に頼って生きている。どうだ、私の言っていることは、間違っているか」
17世紀、ニューファンドランドプラセンシャにおいて
フランス植民地総督代理、デ・ラオンタン男爵に向かって語られた言葉
コンディアロンク(ヒューロン族)1690年頃
作文からアフリカ哲学へ
「アフリカ哲学」、そんなジャンルがあったとは自分も知りませんでした。しかも、どうして「作文から」なのか、このタイトルに至るまでには長い物語があります。
遡ること今から20年ほど前、私が独立起業する直前くらいの時期で、当時はまだ通信教材を制作する会社に勤めていました(今はもう存在していません)。その会社は小・中学生向けの通信による作文教室も展開しており、私も会員の子供たちが書く作文の添削に関わりました。
まだZoomを使って画面越しにミーティングだの授業などという文化はなかったので、今月のお題とそれに対するアプローチや書き方のポイント等を紙に印刷し、作文用紙と返信用封筒と一式合わせて会員さんへ郵送するという実に昭和的な、素朴な手法を取っていました。作文の師匠的な先生がおり、その先生のモットーが「うまい文より心に響く文」でした。起承転結などの文章のルールよりも、どれだけ読む人の心に深い印象を刻むかが大切なのです。読み手の心を動かすにはルールを学ぶよりも思考を磨き読解力を鍛え、自在な視座を持てと言われました。これらが身に付けば、確実に文章に奥行きと幅が生まれます。
読解力とはいかに文章の行間を読み解くかということです。その言葉の裏側に脈打つ書き手の想い、言葉にならない衝動、知られざる歴史などなど、言葉や文章はほんの氷山の一角であり、その裏側の表に出てこない本質の部分を読解せよというのが師匠の口癖でした。それは逆も然りで、表に出てこない膨大な情報を一文に凝縮して表現するわけです。ですから「俳句をよく学べ」とも言われました。確かに、俳句はその短い言葉の向こうに膨大な世界の広がりを感じさせる表現方法です。
作文の会員さんに、関西在住のK君という小学生の男の子がいました。彼の書く作文は大変ユニークで、9歳にしてモノの見方、捉え方、視点や視座といったもののレベルが明らかに際立っていました。文章を書かせると、たとえ子供でも生まれ持った「才能」とか「知力」といったものが滲み出ます。だから私も本気になって、彼の書く作品と向き合いました。
それが多少とも功を奏したのか、彼の中で何か変化が起きたようで御母上がことのほか喜び、私宛にお手紙を寄こすようになりました。御母上は偶然にも私と同い年で、地元では女性弁護士第一号となった優秀な方です。K君の中学受験が無事に済むと、わざわざ二人で宇都宮に挨拶に来てくれました。日光湯元温泉に宿泊の予約を取っていたので、私が車で送り届けました。車中のK君は涼しげな顔で、ずっと英語の勉強をしていました。すでに受験は済んで合格しているのに、彼にとって勉強とは呼吸することと変わらないようでした。「根本的に人間の出来方がちがう」と、思わざるを得ませんでした。
余談になりますが、湯元温泉からの帰途、戦場ヶ原で思わず息を飲む光景に出くわしたのです。私は車を止め、外に出ました。「男体山が、燃えてる?」実際は男体山が夕陽に照らされ、赤く染まっていただけです。でも、その染まり方が尋常ではない。本当に山火事のように、真っ赤に山は燃えていました。それは私だけが感じたわけではなく、他に数台の車が路肩に停車し、運転手たちが同じように外に出て、燃える男体山を眺めていました。それからニ週間後に、東日本大震災が起きました。後から思えば、あれは自然界からの警告だったのかもしれません。「男体山が燃える時、何かが起きる」それは教訓のように私の中に刻まれた出来事でした。
その後、K君は哲学を志し早稲田大学に入学し、成績優秀者として表彰され飛び級で3年間で大学を卒業しました。社会人となったK君の哲学と語学への情熱は衰えることを知らず、再び某有名私大の大学院で哲学の修士課程を専攻し、現在修士論文に取り組んでいます。同時に、御母上が月に一度Zoomを利用し「読書感想会」なるものを企画してくれました。月に一度、今度はK君が先生となって彼の研究テーマである哲学や、彼がすすめる書籍を私たちにレクチャーし、共に意見を述べ合うというイベントです。そこで今取り組んでいる課題が、K君と交流を持つアフリカ人留学生がフランス語で書いた「アフリカ哲学」に関する論文です。K君はフランス語にも造詣が深いため、フランス語の論文を日本語に訳し(ややこしい)、私たちに優しくレクチャーしてくれます。
哲学を一部の限られた人間のための学問にせず、もっとオープンに日常生活にどう落とし込んでいくかが彼のテーマであり、挑戦でもあるようです。作文を通して数百キロ離れた地に住むK君の人生に寄り添い、時を経て今また新たなステージで、思慮深い大人になったK君と再び学び合う関係を築いているという、この事は私の人生にとっても喜びであり誇りでもあります。
街の化粧品屋さん
気が付けば、周りはドラックストアだらけになりました。通りを挟み異なるドラックストアがはす向かいで営業していたり、同じ並びで隣接していたり、住宅街の一角のさほど広くない土地に建設されるなど、まるでコンビニ状態です。
でもコンビニよりも安く品ぞろえも豊富で、ドラックストアと言いつつも冷凍食品や加工食品にお酒類、さらにちょっとした野菜や肉まで置いてあり、本来の薬品と化粧品にスーパーマーケットの機能も備えフル装備に進化しています。
そこに「本日化粧品〇倍ポイントデー」などと銘打ちポイントが大幅に加算されるわけですから、目端の利く主婦はチラシをじっくり見比べて、出来る限り効率よく店を回り買い物しながら賢くポイントもためるわけです。
かつて商店街には必ずといっていいほど、地域に根付いた化粧品屋さんがありました。
私が初めて量販店では扱っていない化粧品を買ったのも、家族で経営する街の化粧品屋さんでした。自分の世代は高校生ではまだお化粧をしなかったので、3大メーカーの化粧水と乳液と下地とファンデーション、アイシャドウ一式をそろえたのは、大学に入学した年です。
40年近く前になりますが、今のようにドラックストアが雨後の筍のごとく乱立しておらず(せいぜい地元発祥のK薬品さんくらい)、まだ100円ショップも存在せず、もちろんネット環境など整っていないので通販サイトという概念もなく、メーカーのブランド化粧品は化粧品専門店で買うという文化が色濃く残っていた時代でした。
当時、国内化粧品3大メーカーと言われた資生堂・カネボウ(現在は花王の完全子会社)・コーセーの化粧品を使うことは自分にとって憧れであり、大人の仲間入りをする登竜門でもありました。値段も高いので子供では買えません。大学生になりアルバイトをするようになって、初めて手が届くようになりました。
宇都宮に帰省した際、化粧品専門店のドアを少し緊張しながらくぐり「初めてお化粧するんですけれども、何か選んでほしいんです。でもそんなに予算がないので…」と、たぶん、そんなふうにお店の美容部員さんに伝えたのでしょう。私の日焼けした肌を見た美容部員さんは火照りを抑えひきしめ効果があり、かつメーカーのラインナップの中でも値段が手頃な若者向けのブランドを選んでくれたことをおぼろげに記憶しています。
以来、化粧品はこちらのお店で購入するようになりました。
確かに今の時代、ドラックストアでもメーカーの一部化粧品をお値引き価格で購入でき、さらにはポイントもゲットできます。商品の情報はネットで仕入れ、店に行ったら棚から自由に取り、特に必要なければ店員さんと会話することなくセルフレジで会計できます。量販店で扱わないブランド化粧品においては、メーカーの公式HPや通販サイトで購入できます。多忙な現代人にとって、その方がわずらわしさもなく、楽だという考えも十分理解できます。
それでも、私は街の化粧品屋さんにいそいそと出向き、カウンターに座り「化粧水が切れたんだけど、今は何があるのかな?」と聞きます。すると美容部員さんが「今度ですね、すごくいいのが出たんですよ」と、おもむろに商品を後ろの棚から取り出し「お時間あればちょっと試してみましょうか?」と、お約束のようにコットンにたっぷりと液を含ませて顔や手に付けてくれます。その際「この成分はですね、業界としては初めて抽出に成功し‥‥云々」と、商品のレビューが始まります。
私はこの時間が大好きなのです。
「へえ~、そんなにすごい成分なんだ。たしかにモノが良いのはつけてみてすぐ分かる。でも、ちょっと私には高価すぎる。予算オーバーだな。次は買えるようがんばるよ」などと応じます。アイシャドウやリップなど新色のメイク商品が出れば、必ずつけてもらいます。そこでまた美容部員さんとあれこれ試しながら物議をかもし自分に似合う色を見つけたり、メイクの技術を伝授してもらったりします。この時間もまた楽しい。
美容部員さんたちは自分たちのメーカーの商品に愛と誇りを持っています。その情熱に満ちた「語り」を聞くことは私の精神を活性してくれるし、何歳になっても「美しくなるかもしれない」という希望は純粋に心ときめくものです。
以上はメーカーから店舗に派遣されている美容部員さんとのコミュニケーション。それとは別に、お店のオーナー夫妻との会話もまた奥深い。これは経営的な話となります。
現在のように化粧品がどこでも入手可能な時代、専門店は生き残りをかけて今後どう展開していったらよいかを、彼らは店で接客に追われながらも常に考えています。
そう簡単に「これだ!」という答えは見つかりません。ただし、ひとつ言えることは間違いなくこの空間には人の温もりと癒しがあり、それらを求める人たちが必ず存在するということです。
一軒また一軒と、街の化粧品屋さんが姿を消しつつあるなかで、そこで踏ん張ることによって希少価値が生まれ、何か光が見えてくるのではないしょうか。

みどりや化粧品店さん明治43年に宇都宮で創業した老舗化粧品専門店。私の高校の後輩でもある現社長は4代目で、栃木県化粧品小売協同組合の理事長も務めます。
巡り巡って養鶏場
世の中の不思議なご縁を感じた話です。
昨年の話になりますが、我が愚弟が務めていた会社を辞め「この年齢で再就職先など滅多にない」と家族がヤキモキしていた頃、懇意にしている社長さんから「誰か鶏のエサやりしてくれる人を探してるんだけど」という話がありました。
聞けば、その社長さんの知り合いが経営する平飼いの養鶏場(ゲージに入れず鶏舎の中で鶏を放し飼いにする飼い方)で人が足りず、養鶏場の社長である女性もすでに70代後半になり、毎朝10㎏を超える餌袋を抱えて鶏舎を行き来する作業がさすがにしんどくなっているという話でした。
そりゃそうですよね。たとえ若くても、朝も早ければ肉体的にも大変な作業だし、ニオイのきつい鶏舎で作業をしてくれる人を見つけるのは容易なことではないでしょう。
「今のご時世ね、そんな仕事やってくれる人材なぞ簡単には見つからないですよ」と冷たく言い放ち、ふと思い出して「いや、ちょっと待って。うちの弟が会社を辞めて就職先探しているから、一応聞いてみます」と言葉を撤回しました。
その後、よくよく養鶏場の詳細を聞いてみると「あれ?そこって、もしや…」と心当たりが浮かんだのです。その養鶏場はもしかしてどころか、父親の親友だった人の弟夫婦が始めた養鶏場でした。もう20年以上前にご主人が急逝し、それから奥さんが経営を引き継いだことも聞いていました。私自身は小さい頃に会っただけで奥さんの顔は覚えていませんが、まちがいなくかつて家族ぐるみで交流した人物です。まさか、こういう形で縁が巡って来るとは。
早速、事情を弟に話してみると「やってみる」という答え。
意外なことに養鶏場に行くようになってから、弟は予想以上に真面目に一生懸命に仕事に励みました。毎朝6時に家を出て、社長をよくサポートし、パートさんたちとコミュニケーションを取り(パートさんの多くは社長と同年代の80歳前後…汗)、どうしたら鶏たちが卵をたくさん産んでくれるか、ベテランさんたちの指導を受けながら自らも情報を取り、彼なりに課題を見つけそれを解決するために、少しずつですが改革を実行していました。
あれから今年の秋で1年が経ちますが、弟が入ってから養鶏場は変わったようです。弟が実行したささやかな改革が功を奏したのか、鶏たちが穏やかになり収卵率がアップしたとか。穏やかになる=ストレスフリーなわけで、人間も同様ストレスが消えれば本来備わった身体の機能が活性化します。
「こんな才能があったのね~」と私は感心しきりでした。
民族学者の折口信夫が提唱した「マレビト」の話があります。かつて、共同体の外側からやって来る異界のモノたちは膠着した共同体に新しい情報や知識を与え、共同体を刺激し活性化させる存在だとされました。それらは歓迎されるものであり、そのモノを折口は「マレビト」と呼びました。
弟が養鶏場にとっての「マレビト」だったら幸いです。そして何よりも、どうか今度の仕事が長続きしますように!


産みたてホヤホヤの平飼い卵。放し飼いなので卵の質の良さは太鼓判!これしか食べないという一定のニーズがあります。人手がどうしても足りない時、私もお手伝いに入ります。第一次産業はどこも人手不足。ゲージ飼いなら手間が減り管理もしやすく人材も少なくて済みますが、平飼いは人手が不可欠。ここが大きな課題です。

新しい鶏を受け入れる前、鶏舎を掃除し籾殻をすべて新しいものに入れ替えます。
