コラム
猫という生き物は・・・(初代スー編)
ご近所の縁をつなぐ猫 (2015/5/26記)
スーがいなくなった。いずれ、そういう日が来るんじゃないかと覚悟はしていたが、ついにその日はやって来た。今の家に引っ越してきて、3週間が過ぎようとしていた。
スーは我が家の保護猫である。東日本大震災のあった2011年の暮れにどこからともなくやって来て、ちゃっかりウチの猫におさまった。スーが来た時、我が家にはすでに2匹の猫がいた。1匹はキジトラのおばあちゃん猫で、もう1匹は2010年の12月に迷い込んできた、若い白×黒ブチのメス猫だった。
スーは男の子だったから、白黒ブチのメスのハナちゃんを追いかけて(なにせ魅力的なお尻を持った女の子だったから)我が家にたどり着いたのだろう。
猫は縁あって拾うものだと思っているので、「ここにいたい」と主張する猫については保護し、避妊や去勢手術を施し家に置くようにしている。
犬は人になつき、猫は家になつくと昔から言われており、事故以外で猫がいなくなる大きな要因のひとつとして環境の変化があげられる。だから今回の引っ越しで、1番の懸案はスーだった。子猫ならともかく、大人の猫が劇的な環境の変化にうまく馴染んでくれるだろうか。
高校時代の友人である獣医のヨウコ先生に相談したところ、「この引っ越しを機に、スーちゃんを室内飼いにしたらいかがでしょうか。外飼いの猫を室内飼いにするのは、引っ越しがチャンスです。その際、ガラスや玄関をガリガリやって外に出たいと鳴いても、ひたすら無視することです。外でウィルスなどに感染した猫はかわいそうです。スーちゃんがうまく室内飼いに慣れることを祈ります。飼い主さんも忍耐が必要なので、頑張ってください。」と、ご丁寧なメールが届いた。
「スーと暮らすためには忍耐ね、忍耐」と私は気持ちを振い立たせ、2015年3月31日にキャリーケースに入れて、スーを新居に運び込んだのだ。
それから1週間、スーは朝も昼も夜も鳴き続けた。鳴き疲れると眠り、起きてはまた鳴いて、玄関やサッシを開けようと必死になってガリガリした。忍耐とはいえ、それはあまりにも見ていて不憫な姿だった。
たとえウィルスや事故から保護されようとも、こんなに外の世界を求める猫を家の中に隔離することが、本当に正しいことなのだろうか。
「病気や事故から守る」というのは人間側の言い分で、猫にとって一番残酷なのは、屋根や塀の上を歩いたり、お日さまの匂いのする草の上で昼寝をする自由を奪われることなんじゃないだろうか。でも、今外に出したら、絶対にスーは我が家に戻って来られないだろう。
引っ越して以来、スーの鳴き声で家族は全員寝不足になったが、10日目くらいから少し落ち着いたように見えた。鳴かない時は2階の窓から、ジっと外を見ているようになった。そうして家族が油断したすきに、トイレの窓の網戸を自分で器用に開けて脱走してしまったのだ。気付いて外を探したが、どこにも姿は見当たらない。
「ダメか・・」と思ったら、2時間後に前の家の方から「ニャー」と戻ってきた。外から帰って来たスーはとても満ち足りた顔をして、座布団の上でグッスリと眠った。
次の日、私はわざと部屋のサッシを少しだけ開け放しにしてみた。案の定、スーはそこから出て行った。そして今度は四時間後に戻ってきた。それが数日間続いた。「この調子でうまく周囲の地理を覚えてくれたら・・」と、期待に胸を膨らませた。でも外に出すのは昼間だけにしておいた。夜は動きが活発になるからだ。ところがある日、うっかりして夕方もサッシが開けたままになっており、気付いた時はスーが外に出てしまった後で、そして戻って来なかった。
でも、私はスーが一度脱走して以来、いつかこうなることはどこかで覚悟していたかもしれない。きっとスーは昼間近所を偵察し、あの日の夕方、覚悟を決めて家出を決行したのだ。自由と、もっと居心地のよい場所を求めて!
ところが・・・だ。
約ひと月後、スーが見つかった。しかも驚くべきことに、前の家にちゃんと帰っていたのである。
5月も半ばばを過ぎた月曜日の朝、元の家の二軒隣だったウガジン床屋から電話が入った。
「さっきね、隣のツノダさんと話していたら、オンダさんとこの猫らしいのが庭に来たって言ってるんだよ。ツノダさんに連絡してみなよ」
というので、早速ツノダさん(元の家の道をはさんで向かい側の家で、祖父母の代から交流があるお宅)に電話をしてみた。
「どうも、ご無沙汰してます。さっきね、ウガジンさんからうちの猫らしいのがツノダさんとこに来たって連絡をもらったんですけど、ウチの猫でしたか?新居に連れていったら、ひと月前にいなくなっちゃったんですよ」
「そうそう、猫が来てるよ。オンダさんの猫のような気がするんだけどなぁ」
そこで、すぐに母親とツノダさんを訪ね、携帯に保存してあったスーの写真を見せた。
「こんな感じの猫だけど・・」
「こんな感じだったような気がするけど、なにせいつも見かけるのが夕方だから、色がはっきりわかんないんだよね」
「いつ頃から見かけるようになりました?」
「いやぁ、ここ四、五日くらいかなぁ」
そういった会話を交わし、また見かけたら連絡もらえるようにツノダさんに頼んで、ひとまず家に戻った。その際、ツノダさんの奥さんは、世間話をしながら何気なく、庭の花を五本ほど切って分けてくれた。
それから小一時間後、暗くなった頃にツノダさんから「いま来てるよ!やっぱりあの猫だよ!」と電話があり、取るものもとりあえず再び出動。
「今さっきまでここにいて、外からウチの中をのぞいてたけど、ちょっと前にタタミ屋さんの作業場に入っていっちゃったよ」とツノダさん。ふと下を見ると、玄関横に、水と焼いたシャケの骨が置いてある。ツノダさん、ちゃんと気にかけてくれていたんだ。ありがたいな。
タタミ屋さんは、昔の我が家のすぐ南側の家である。先代のご主人は早くに亡くなり、今はノンちゃんという、先代の次男さんが家業を継いでいる。たしかにスーはこちらにいた頃、タタミ屋さんの仕事場付近をよくうろついていた。
でも、3つ年上のノンちゃんは私の幼なじみだが、もうだいぶ長いこと言葉を交わしてしなかった。
「すみません。ウチの猫が戻ってきていると目撃情報があって、こちらで見かけませんでした?」
裏口から思い切って、作業場のノンちゃんに声をかけた。
「あれ?オンダさんとこの猫って、もう二週間前から来てるよ。だから置いていったのかと思ってたけど、そうか、戻ってきたんだね」
と気さくに答えてくれた。ノンちゃんと数十年ぶりの会話である。
2週間前とは、意外に早い時期に、スーは戻っていたのである。しかもよくよく話を聞けば、こちらにいた時から、スーはちょくちょくタタミ屋さんの作業場におじゃまして、ゴロゴロ寝ていたらしい。
タタミ屋さんも動物好きで犬を飼っているのだが、そのワンちゃんもすっかりスーには慣れっこになって、見かけても特に吠えないのだそうだ。
猫は何軒か家を持つと言われているが、はやりスーもそうだった。知らぬは飼い主ばかりである。とりあえず見かけたら連絡くれるよう、ノンちゃんに自分の名刺を置いてきた。
そして翌朝、いよいよ再会の日が訪れたのである。
朝8時にノンちゃんから電話が入った。速攻で向かうと、ノンちゃんが作業場にやって来たスーを捕まえておいてくれたのだ。それは正真正銘のスーだった。ガリガリに痩せこけていたらどうしようと心配だったが、見た目はほとんど変わらない。毛並みもきれいで、汚れていない。抱っこしたら多少軽くなったかな?と感じる程度で、もともと肥満気味だったから、ちょうど良い体重になったともいえる。
いなくなってひと月、もし食べ物に不自由していたら、こんな状態は保てるはずはない。これはどこかに、エサ場を確保していると考えるほうが自然である。
しかし何より驚くべきことは、スーが元の家に戻ったという事実だ。
よく猫が元の家へ戻る話は聞く。しかし、あのおっとりとしたスーにそんな能力があったとは・・。
元の家と今の家は、直線距離にすれば2キロくらい。でも、その間には、宇都宮環状線という車の往来が絶えない四車線道路が横たわっている。
命を危険にさらす環状線越えを、スーは独りでやってのけたのだ。何とまあ。よくぞ無事で渡りきったこと!
色々調べてみると、この猫の帰巣本能はある種の特別な能力であるという。目標を定めると、頭の中で立体的な地図を作成する能力が猫にはあると考えられているようだ。もしくは、ある特定の目印や方向にのみ強く反応する能力とか。
スーは新居に引っ越した後、夜になると私の2階の部屋から、じっと元の家の方角を見据えていた。
少し高台にあるため、遠方までよく見渡せる場所だった。スーが見つめるその先には、元の家の前にあったスーパーたいらやの看板が「こっちこっち」と呼びかけるように、光を放っている。
「あそこに絶対帰る」と、スーは遠くに光るたいらやの看板を見つめながら、頭の中に地図を描いていたのだろうか。そして3日間、元の家に辿り着くためのスタート地点を確認し、私たちが「外に出てもこの子は戻って来るから」と油断したすきに、家出を決行したのだろうか。
もしかしたら元の家は大谷街道沿いだったため、車が道路から消える時間帯を、スーは感覚で分かっていたのかも知れない。環状線から唯一車が消える時間帯は、夜中の3時から4時の間だ。その時間帯なら、猫の足でも無事に四車線道路を渡り切れる。
とにもかくにも、スーは命を賭して、懐かしい我が家に戻った。その意志は何がどうなろうと、決して変わらないだろう。たとえ連れ戻しても、スーにとってはありがた迷惑なだけかも知れない。そして再び家出をするだろう。ただし、次は無事に環状線を越えられるとは限らない。
そんな事情を説明すると、ツノダさんもノンちゃんも、他の組内の皆さんも、スーを見守ってくれることを快諾してくれた。私たちがノンちゃんに、定期的にキャットフードを預けに行くことで話がまとまった。
まったくもって、ご近所の底力とスーの人徳ならぬ、猫徳を見た思いである。初夏の爽やかな空気が香る5月の夕暮れ時、一匹の猫の大胆な勇気と行動によって、消えかけていたご近所の縁が再びつながったのである。
猫という生き物は・・・(ハナちゃん編)
桜の季節の別れ(2012/4/25の記)
飼い猫のハナちゃんが突然いなくなって、もう2週間以上になる。前の日の夜まで何事もなく、その辺りを走り回り炬燵で眠っていたのに、朝になって戻って来なかった。
その数日前の夜、私は家の階段の上でハナちゃんを思わず踏んづけてバランスを崩し、階段下の玄関のドアの前まで頭から滑り落ちた。電気をつけず階段へ足を踏み出したら、そこにハナちゃんがうずくまっていたのだ。私を階段で待っていたんだな。階段から落ちた時、ものすごい音が家中に響きわたり、家族は雷が落ちたと思ったらしい。滑り落ちながら私は「ハナちゃんを巻き込んじゃいけない」と、それだけが心配だった。
ハナちゃんは黒×白のツートンカラーのメスのブチ猫で、顔は黒のヘルメットをかぶっているように見えた。パーマンの顔に猫耳をつけた感じとイメージすればいい。そこに金色の大きな目がついていた。美人ではないが、個性的な顔だ。お腹は真っ白で胸の部分に黒い丸いポッチがあった。背中から尻尾はツヤツヤした黒い毛で被われていた。だから暗闇でうずくまると、闇にまぎれて見えない忍者猫だった。
玄関前で激痛に絶える私の視界の隅っこに、一目散に外に走って逃げるハナちゃんの姿がチラリと入ってきた。
(あぁ、ハナちゃんは無事だったんだ)
とホッとした。その後救急車で運ばれて、骨折の処置をして帰ってきたのが明け方で、そしたらハナちゃんも外から戻ってきた。申し訳なさそうな顔をして、小さくなっているハナちゃんが何とも不憫だったな。
「ハナちゃん、踏んじゃってごめんね。痛くなかった?」と頭を撫でてあげたら、金色の目で「ゴメンネ(たぶんそう言ったと思う)」と、私を見上げていたハナちゃん。
私は右腕を骨折したがハナちゃんは特に変わりはなく、ご飯をモリモリ食べ、昨年12月から家族に加わった弟分のスーとじゃれ合いながら、いつもと同じ日常を送り、それから六日後に忽然と姿を消した。
ここ2年ばかり、年末になると立て続けになぜか猫が迷い込んでくる。ハナちゃんが我が家に来たのは一昨年の12月。翌年の12月にはオスのスーが、ハナちゃんを追いかけてどこからともなくやって来て、そのまま我が家に居座った。
ハナちゃんを来たのは、寒い冬の夜だった。まだ手のひらに乗るくらいの子猫で、体調が悪いのか、目ヤニで目がふさがっていた。下痢もひどく、お尻のあたりはただれて、毛が抜け落ちていた。でもありったけの力を振り絞って懸命に我が家の軒下で、ミャーミャー鳴いていた。
「気のせい、気のせい」としばらく無視していたが、とうとう鳴き声に耐えられず拾ったのだ。
牛乳をあげたら、ペロペロ舐めた(すぐに下から汚水となって出てきたが・・)。
抱っこすると安心したのかスースー眠りだしたので、私も茶の間の炬燵に入ったまま、朝までずっと膝の上に置いてあげた。
自分が拾って一晩抱いていた猫のせいか、3匹の猫(もう1匹、14歳の高齢猫がいる)のなかで、ハナちゃんへの愛情は特別なものがあったと思う。
スーがやって来る前のハナちゃんは勝気で独占欲が強く、よく高齢猫をいじめていたが、スーが来て弟分ができるとだいぶ変わった。何より高齢猫をいじめなくなった。お姉ちゃんとしての自覚が出てきたのと、じゃれ合う相手が見つかり張り合いが出たのかも知れない。
それでもやはりハナちゃんは、一番活発な猫だった。オスのスーは台所の椅子の上でぐうたら寝ている時間が多いが、ハナちゃんはいつもアグレッシブに、外をパトロールしていた。動くせいか食欲旺盛、狩も上手、体も女の子なのに筋肉質でガッチリしていて、この子は絶対に病気なんかに縁がないだろうと思っていた。
今回はその活発さが仇となってしまったのだろうか。でもそれは、外猫の宿命でもあるのだ。我が家の猫は昔から環境が許す限り、家と外を自由に行き来していた。猫たちは塀の上で日なたぼっこをし、芝生の上を歩き、草むらで蛙やトカゲを狙い鳥や小動物を狩る。
獣医の友人には「いろんな場所で病気やケガをもらってくるから危ないよ」と言われたが、猫は犬より野生性が強い。雨上がりの廊下についた猫の足跡には辟易するが、なるべく本能に忠実に野生を生きて欲しい。でもそれは裏を返せば危険と、そして死と隣り合わせということでもある。
いなくなってから、何度も家の周りをハナちゃんの名前を呼びながら探し歩いた。家族にしかなつかない猫だったので、他人には絶対に自分からは近づかない。とすると、たぶんどこかで何らかの事情で動けなくなっている可能性が高い。外猫は体の具合が悪くなると、人目を避けて物陰にかくれ、じっとしている習性がある。昔の猫は寿命が尽きる時、人間の前から姿を消すのが普通だった。人間は猫の最期を看取れるようになったのは。家の中で飼ったり、動物病院に連れて行く習慣が普及した最近になってからのことだ。
しかし、昨日まで元気でいっしょに暮らしていた小さい者が今日はいない・・というこの信じがたい現実。たとえ猫でも、自分の手で小さい頃から愛しんだ者が突然姿を消して行方がわからない、という出来事を前にして、子供が突然行方不明になったり、事故で亡くなった親の思いが重なった。
次節がら、3月11日にNHKの特別番組で、震災で娘が未だに行方不明いう夫婦の1年が紹介されていた。父親は震災以来、毎日日記をつけていた。日記の最後に必ず「○○(娘の名前)、今日も帰らず」と書き留めていた。来る日も来る日も、最後は同じ言葉だった。
遺体と対面しないうちは、人間は「死」という現実をなかなか受け入れられないものなのだ。もしかしたらどこかで生きているんじゃないかと、淡い期待を抱いてしまう。仮に「死」を受け入れても、なんとか亡骸だけは自分の手で弔いたいと思うのだ。外で自由に遊ばせておいて矛盾しているかもしれないが、誰も知らない寂しい場所で、冷たい雨にたった一人で打たれていると思うと不憫でならない。
津波にさらわれたまま、戻って来ない人を待つ日々を生きる者の思いは、いかばかりだろうか。
3月11日の新聞の寄せ書きに、「水泳が好きだったから、まだどこかで泳いでいるのかなぁ。会いたいよ」と、行方不明の娘への思いを綴った父親の言葉に胸が詰まった。
平年よりだいぶ遅れて、桜の花が満開になった日、宵の明星が西の空に輝き出す時刻、スーが隣りの駐車場の角に咲く桜の木の根元に座り込み、じっと花を見上げていた。私も近寄って桜をいっしょに見る。
「ハナちゃんはいいお姉ちゃんだったよね、スー」
「ミャー」
「スーはハナちゃんが大好きだったものね。どこに行っちゃったんだろうね」
「ミャー」
「お星様になったのかもね」
思わず自分の言葉にたじろいだ。この年齢になっても、素直にこんな素朴な気持ちになることに、我ながら驚いた。
ネアンデルタール人でさえ、すでに葬送の儀式を行った痕跡を持つと言われている。感情を持つ人間はこうやって幾歳月、愛する者と別れる時、そこに何らかの意味を見いだし、その深い悲しみを乗り越えてきたのだろう。
満開の桜の花影に、ピンク色の首輪をした金色の目のハナちゃんをスーは見ていたのかも知れない。
猫という生き物は・・・
我が家の保護猫の「コイチャ」が、家からいなくなった。だいぶ弱っていたので、たぶんどこかで独りひっそりと亡くなったのだろう。
2月末のある晩、チャチャといっしょに箱の中で寝ていると思ったら、ちょっと目を離した隙に姿を消したので「あっ、これでコイチャとは永遠のお別れだ」と悟った。
猫は死ぬ前に姿を消すというけれど、外へ自由に出られる環境にしていると、たとえ飼い猫であったとしても猫は己の寿命が尽きる時、静かに黙って消えていく。それが猫という生き物だ。
この家に引っ越してきたのが11年前。当時、避妊も去勢もせず猫をダダ洩れで増やす家が近所にあり、そこからはみ出した猫たちが、我が家に3匹やってきた。
まず「スー」が乗り込んできた。小柄だが、明らかに意志の強い光を放つキリリとした黒目がちの瞳が印象的な、白色部分が多いメスのキジトラ猫だった。それからまもなく、スーをそのままひとまわり拡大コピーしたような図体のデカい、でもどこかトボけた雰囲気が憎めない「お兄ちゃん」がやって来て、そして茶色の縞模様が美しい小柄で甘えん坊なオス猫の「チャチャ」と、立て続けに我が家に住み着いた。

猫はどこからか「こいつなら面倒見てくれそうだ」という人間を観察し、目星を付け、徐々に距離を縮めていく。すでに事前に、私へのアピールはあった。自宅に帰ると、いつもスーとお兄ちゃんがお向かいの家の石塀の上に2匹並んで座り、じっとこちらを見つめていた。猫好きにはたまらない光景なので、
私は家に入らず2匹のもとに近づき、身体を撫でてあげていた。
そういうシーンが何度かあり、彼らは「あの人間ならいける」と確信を得たのだろう。タイミングを見計らい、意を決してパイオニア精神豊かなスーが「この家の猫になる!」と、先陣を切ったのだと思う。まったく猫という生き物は・・・なのだ。
コイチャが我が家の猫になったのは一昨年の秋。だから我が家の猫歴は約1年と半年で、さほど長くはない。でも我が家の周辺をうろつくコイチャの姿は、もう4年ほど前から見ていた。大きくて丸い潤んだ瞳のキジトラのオス猫だった。
この一帯のノラさんたちは、ことのほかキジトラ種が多い。おそらくノラさんたちの中に圧倒的に強いキジトラのボスがいるのだろう。
サッシを開け放しておくとコイチャはいつのまにか家の中に入ってきて、スーやお兄ちゃんのご飯を食べていた。私や母親の膝の上で何の心配もなく安心しきって眠る我が家の猫たちを「自分もああやってお膝に乗って眠りたい」と訴えるかのように、外からじっと見つめるコイチャの姿があった。
そしてある日、コイチャはとうとう行動に出た。私の前に歩いてくると、ゴロンと転がりお腹を見せ、撫でてあげると目をつぶりスリスリし、猫流の「信頼の証」のポーズを示したのだ。そこまでされたら、もう受け入れるしかない。一見するとチャチャにそっくりだが、チャチャより黒みがかった濃いめのキジトラなので「コイチャ」と名付けた。
以来、もう何年も前から我が家の猫であるかのように、コイチャは私たち家族にベッタリと甘えまくった。とにかく抱っこが大好きで、いつも「抱っこして」と前足で私たちの足をひっかきながらせがんだ。そして布団の上で丸くなったり、布団の中に入ってきて人間の体温に触れながら眠ったり、今までの空白を埋めるかのように、今まで欲しくてたまらなかった人間の愛情や温もりをたっぷりと味わうかのように、ご飯もたくさん食べて、コイチャは家猫生活を満喫していた。
さらに家族以外のどの人間に対しても、コイチャはスリスリと近寄り人懐っこく愛情を示すため、我が家を訪ねてくる人全員に愛された。
でも、長年の過酷な外猫生活は確実にコイチャの身体を蝕んでいたのだろう。我が家の猫になって半年たった頃、ご飯を食べなくなり痩せてきたので動物病院に連れて行ったところ、猫特有の腎臓病と診断され「何も処置をしなければ、もって一週間」と言われた。
今の動物病院はすぐ治療にかかる項目を一覧にした見積書を作成し、「これだけかかりますが、どうしますか?」と飼い主に問う。うん万円という現実的な金額を見せられると、まず「うっ・・」と立ち止まる。でも「せっかくウチの猫になったんだから、もう少しがんばって生きようね」という気持ちが勝る。
すぐに注射を打ち、薬を処方され、しばらく週2回の点滴を実施したところ、コイチャは持ち直し、再びモリモリ食べ、活発に動き、たっぷりと愛情を受ける生活に戻った。それから1年経った今年2月中旬、コイチャは再び食べなくなり痩せてきた。
病院に行くと、今回はかなり深刻だった。腎臓だけでなく歯周病も進み鼻水もひどく、処置は施したが前回とは異なり、明らかに1日1日、目に見えて弱っていくのがわかった。
体重も日に日に軽くなり、それでもコイチャは毎日の日課の朝のパトロールに出かけて行き、午後に戻るとふらつきながらも階段を登り、私のベッドの上で丸くなって休んでいた。
これまで何匹かの猫の最期に立ち会ってきた。それから学んだことは、死期を悟ったら、もうそれ以上の治療はしない。細胞が活動を止める準備をしているところに、嫌がる猫を押さえつけ無理やり口をこじ開けて、薬やご飯を押し込めることは疲弊している猫にとっては大きなストレスであり、それは人間のエゴでしかないと。だからもう、その時まで辛いけど、私たちは死に逝く猫をただ見守っていこうと。
「コイチャ、うちに来て幸せだった?もっと抱っこしてあげたかったよ」
脱水から開いたままになったコイチャの目を見ながら、こう話しかけた。
驚いたことに、いつもお兄ちゃんにベッタリの自分本位の甘えん坊のチャチャが、心配そうにコイチャの傍に常に寄り添うようになった。コイチャが箱に入るとチャチャもそこに入り、いっしょに眠っていた。チャチャの優しさに心が震えた。

そして、ふとした隙にコイチャはチャチャの元から音もなく離れ、跡形もなく消えていた。
そして多くの猫がそうだったように、それきり戻って来なかった。
もしかしたらコイチャは自分の命の期限を悟り、野良猫の自分がずっと夢見たことを叶えようと、我が家にやってきたのかも知れない。人間に抱っこされ、優しく話しかけられ、たくさん愛情を受け、お腹いっぱいご飯を食べて、温かい布団で眠ること。1年と半年の間、短い期間だったけれどコイチャは我が家で120%、自分の夢を実現したのではなかろうか。夢を叶え、そして潔く逝った。
こうやっていつもいつも、私たちは猫という生き物の奥深さに驚かされるのだ。
冬のオリンピック・めくるめく女子フィギュア
2月23日、日本時間の早朝、2026年ミラノコルティナオリンピックが閉会式を迎えました。
「冬のオリンピックは競技種目も少なく、いまいち盛り上がらない」という意見も聞きますが、自分は冬のオリンピックが好きかもしれません。冬は最も自然が過酷で、ありのままの姿を見せる季節です。
山登りをしていた学生時代、3月上旬に残雪期の雪山に入る春山合宿がありました。3月とはいえ、東北の山はまだまだ深い雪に包まれています。雪も降るし吹雪にも見舞われます。でも、生き物の気配を消し、音をも吸い込む白銀一色の世界は、「無」そのもので本当に美しい。
雪と氷の季節に繰り広げられる冬のオリンピックはどこか素朴で、遊び心を感じます。厳しい冬を乗り越えるために人間が編み出した道具を駆使し、自然といかに巧みに戯れるかを試される祭典ともいえるでしょう。
LIVE中継を明け方までテレビにかじりついて見ていた時代もありましたが、だんだんそこまで執着して見なくなったオリンピック。自分で会社を始めてから忙しくなったこともあり、いや、忙しいというより、オンとオフが曖昧になり、気持ちと時間に余裕がなくなったのかもしれないな。
それでも、やはりフィギュアスケートは見ずにいられません。
最古の記憶は小学生だった1970年代、日本はまだフィギュアスケートの黎明期。
渡部絵美選手が日本人として初めて、オリンピックで上位入賞を果たしました。自分も女の子だったので、華やかな衣装を着て、氷の上でジャンプしてくるくる回る姿に「すごおい!きれい!」と単純に興奮したのかもしれません。
それから十年余経た1980年代、私と同世代の伊藤みどり選手が、女子選手として世界で初めてトリプルアクセルを成功させ、女子には不可能とされた扉をこじ開けました。しかも高さも飛距離も男子並みという、伊藤選手の豪快なトリプルアクセルジャンプ。本当にすごいジャンプで、あれをリアルタイムで見られたことは幸せです。
そのジャンプをひっさげて迎えた1992年のアルベールビル五輪では、フィギュアスケート競技で日本人初の銀メダル獲得!興奮しました。
伊藤選手と同時期に活躍したドイツのカタリナ・ビット選手も、記憶に残る選手です。真っ赤な衣装を着けて、情熱的かつ妖艶にカルメンの曲に乗って氷上を舞う姿は、まさに芸術作品そのもの。ビット選手がライバルの伊藤選手のスケーティングを評し、「ただ飛んで回ってばかりのスケートは芸術じゃない」と酷評したとかしないとか。
確かに、伊藤選手が現れる前の女子フィギュアスケートは、見た目の美しさや芸術性が重視されていたのかもしれません。そういう観点からすると、当時の日本人は不利だったのです。
欧米人に比べ背も低く、手足が短く体型もずんぐりしているし、足も太い。「見栄え」からすると、どうしてもスラリとした欧米人に劣ってしまう。
その意味でも、伊藤選手はパイオニアでした。背は140センチ台と小柄だった。ただ、伊藤選手のトレードマークでもある逞しい見事な筋肉質の足から放たれる豪快なジャンプは、欧米選手には真似のできない唯一無二のものでした。女子フィギアの歴史を変えた、偉大なるスケーターです。
伊藤選手の実績が日本フィギュアスケートのステージを一気に世界レベルへと引き上げると、その後は様々な個性豊かな選手が登場し、世界で互角に闘うようになりました。そして、荒川静香選手が2006年トリノオリンピックで日本人、アジア人としても初の金メダル獲得。身長もあり、スラリとした荒川選手の肢体としなやかさ、誰もが息を飲む荒川選手にしかできない美しいイナヴァウアー。トゥーランドットの壮大な音楽に乗って芸術性と技術を見事に表現したスケーティング。滑る喜びと、スケートへの愛が一体となった荒川選手のフリーは、心に深く刻まれた決して忘れることができない演技の1つです。
その荒川選手に憧れて、スケートを始めたという浅田真央選手。愛らしくて、素晴らしい3回転ジャンプと確かなスケーティングで皆に愛された真央ちゃん。伊藤みどり選手以来、トリプルアクセルを飛ぶ女子スケーターとして、日本中の期待を背負いました。2010年のバンクーバー五輪ではトリプルアクセルを成功させながら、宿敵キム・ヨナ選手に敗れ惜しくも銀メダル。
でも、真央ちゃんの神髄は、最後のオリンピックとなった2014年のソチ五輪でしょう。伝説として今も語り継がれる、浅田真央選手のソチのフリー演技。あの時、金メダル候補だった浅田選手はショートで失敗し、フリーは16位からのスタートでした。
「さすがの真央ちゃんも、今回はどうにもならないだろう」と諦めムードが漂っていたフリーの演技で、彼女はやってのけました。最初のトリプルアクセルを成功させると、次々と確実に3回転ジャンプを決めていきました。明らかに、いつもとは違う真央ちゃんだった。ものすごい気迫が伝わってきた。
正直、真央ちゃんには、ずっと何か物足りなさを感じていた。技術は完璧。でも、彼女の滑りは音の表現がいまひとつ、欠けていると。そこがキム・ヨナに勝てなかった部分だと。
その懸念を覆したのが、ソチのフリーでした。あの日、背水の陣で臨んだ浅田真央選手の試合にかける集中力と鬼気迫る思いが、ラフマニノフの重厚な旋律に乗って、会場全体を覆い尽くしていた。天賦の技術に加え、音を捉えた迫真のスケーティング。
あのタラソワコーチが「真央、すばらしい・・」と絶句した演技。そしてフィニッシュを迎え、天を仰いだ後の、全てを出し尽くした人間だけが見せる満面の笑顔と涙。
結果は、10人ゴボウ抜きの6位入賞。順位やメダルなど問題にならない、それ以上の凄いドラマを見させてもらいました。
浅田選手以降、ロシア勢が4回転ジャンプを成功させる時代に入ると、日本は表彰台から遠ざかります。
「女子もいよいよ4回転の時代に入ったか」とも言われました。
でも、ひとりの才能ある選手を数年かけてじっくり育てるとか、成長を見守るというやり方でなく、新しいシーズンが始まるごとに、次から次へと4回転を飛ぶ若い新星を送り込んでくるロシア。
無心に滑っていた小さな女の子が、大きくなるにつれ挫折や様々な葛藤を抱えながら、あらゆる苦難を乗り越え、心身ともに大人の女性へ、真のアスリートへと成長を遂げるその過程を見ることが、フィギュアスケートの醍醐味でもあります。国の威信をかけて、結果重視のロシアはお国柄仕方ないとしても、選手にとっても、こういうやり方はいかがなものか?と感じていた人間は多かったはず。
ロシア勢を意識し、4回転に挑戦する選手もいましたが、身体に負担がかかり大切な時期に怪我をして欠場する事態も起きました。そういうなかで迎えた2022年の北京オリンピックにおいて、坂本香織選手が堂々の銅メダルに輝きました。4回転を飛ばずともメダルが取れる!と、多くの選手に勇気を与えたであろう坂本選手。
北京の坂本選手のフリー、私も大好きです。曲の雰囲気も、坂本選手にピッタリ合っていた。彼女の持ち味である疾走感、躍動感。そして世間が何と言おうと、自分のスケーティングを貫いた強い意志。
北京のフリーを見ると、涙が出てくる。「見よ!私は私の道を行く」と、高らかに宣言するかのごとく、のびのびとしたスケーティング。フリーダムという言葉がピッタリの、見る者の心に訴えかける、何かを凌駕していくような、心揺さぶる会心の演技でした。フィニッシュの後、「自分が今、表現したいことを全て表現した」と、納得したように小さく頷き、ガッツポーズを決めた坂本選手のカッコよさ。
2026年、競技人生を懸け、最終章と決めたミラノコルティナ五輪。出来れば、坂本選手に金メダルを取らせたかった・・。本当に一瞬のタイミングのズレで、メダルの色が変わってしまう。でも、その残酷さもオリンピック。五輪でのミスは、絶対に許されない。取り返しがつかないから。それは坂本選手が一番よくわかっていること。わかっているからこそ、くやしさは並大抵ではないはず。
いつもいつも、背中を叩いてリンクへと送り出してくれた中野コーチの腕の中で、思わず泣き出した坂本選手。私もいっしょに泣いていました。この万感の思いは、トップを走り続けたアスリートだけが嚙み締められる、特別な感情です。
坂本選手のダイナミックなスケートをもう見られないと思うと、寂しい。坂本選手はその圧倒的存在感を、みなの目に焼き付けてくれました。
「坂本香織選手、偉大なる女王。あなたは最後まで本当に素敵でした。何年たっても、私はあなたを忘れない。きっとまた、あの日の自由に輝やいているあなたに、会いにいくことでしょう」
2026衆議院選挙当選!
ご報告が遅くなりましたが、このたび盟友・柏倉ゆうじ君が比例復活当選を果たしました!
おかげ様で十数年ぶりに、衆議院に返り咲くことができました。
応援いただいた皆様、本当にありがとうございました。
私もこの1週間は仕事の合間にお礼行脚と忙しく、ようやく本日パソコンの前に向かうことができました。
さて、前回のコラムに書いた「成るか、400年越しの御恩返し」のお話について、
こういうのって、ひと昔前なら「そんなこと、あるわけない、ただの妄想」と切り捨て御免でしたが、
読んだ方からの感想が、意外にも好意的なのは自分でも驚きでした。
「あの話、自分の中でストンと腑に落ちました。太古の昔から自分の命は、知らない女性たちが出産で繋いでくれたおかげで今の自分が生まれたことを想うと、感謝の気持ちでいっぱいになります」
と、やはり女性たちは感度がいい。スっと自分の中に入ってくるようです。
一方、男性からもレスポンスがありました。その方は歴史好きで、戦国時代に山形市近郊の長谷堂城で繰り広げられた「慶長出羽合戦」を知っていました。
「上杉の直江兼続と最上義光が戦った慶長出羽合戦や長谷堂城は知ってるけど、あの土地が柏倉村だったことは知らなかった。
不思議な話だけど、ロマンがあるしドラマチックだよね。山形に住んだのも、縁があったのかもね」と、けっこう面白がっていた。
そう、自分が「山形」というキーワードを意識したのは、小学校5年生の時。今でもハッキリ覚えています。
ある日、隣のクラスの先生が朝の朝礼に来て「小島先生は今日から3日間、山形県に出張となります」と話しました。
すると「山形県って、どこですか?」と質問が飛びます。世界が圧倒的に狭い小学生です。
せいぜい自分の自宅と学校周辺の自転車で回れるくらいのエリアか、もしくは遠足で行った日光や益子に大平山、
遠くて夏に大渋滞を覚悟で海水浴に連れて行ってもらう、茨城県大洗海岸程度しか知らない当時の小学生は「山形県」という未知なる土地が、一体どこにあるのか皆目見当がつきません。
「そうね、ずっと北の方、東北地方って呼ばれる雪深い場所」と、隣のクラスの先生は言いました。
私は休み時間になると、廊下に出て窓から北の方を見つめました。
当時の宝木小学校はまだ田んぼに囲まれていたので、廊下の窓から遙かに高原山や那須連山を、眺めることができたのです。
季節は晩秋の頃だったと思います。そのため北の山側の上空には、何とも不穏な鉛色の雲が広がっていました。
「山形県・・。あの山の、さらに遠くにある場所」
子供心に、郷愁のような憧れのようなものが、自分の中に芽生えた瞬間でした。
この時は、まさか自分が学生時代を山形県で過ごすことになろうとは、夢にも思いませんでした。
そして、まさか旧柏倉村を本家とする人間の選挙を手伝うことになろうとは!
本当に人の世の縁とは、思いもよらないところでつながる摩訶不思議なものです。
世の中は「縁」と「運」で構築されていると、思う時があります。そして縁と運は、非常に密接な関係があるということです。
なにはともあれ、当選にはいくつかのラッキー要素もありました。
それまで「しょせん西日本の党・東日本ではムリ」と、歯牙にもかけられなかった日本維新の会でしたが、高市政権と連立を組んだお陰で政権与党となり、イメージが底上げされました。
さらに、栃木1区は女性候補が立たなかったことも、幸いしました。
もし、若い女性が出ていれば、また結果は違っていたかもしれません。
しかし、やはり1番は、柏倉ゆうじの政治への執念と情熱です。
よくぞ10年余、集中力とエネルギーを切らさず耐え忍びました。最後はそこに尽きるでしょう。
さあ、これはゴールではありません。ここからがスタートです。
柏倉ゆうじは私と同世代、長い浪人生活のお陰で、在野で多くの有権者と接し、生の声を聴いてきました。
それを強みとし、私たちの代弁者として、国政で活躍していただくことを強く願います。
今後とも、柏倉ゆうじを応援いただきますよう、心からお願い申し上げます。

