有限会社ユーアンドエス 代表取締役/ライター 恩田すみえのホームページ

コラム

2026
01 / 09
23:30

地震

今年も年明けに、中国地方で大きな地震がありました。定期的にやってくるので、「また今年も来たか」と、いけないことなのでしょうが地震慣れしている自分がいます。

 

あの東日本大震災からまもなく15年が過ぎようとしています。早いものです。「生きている間に、こんな悲惨な光景を見るなんて・・」と、当時は津波の映像をテレビで見ながら涙が止まりませんでした。東北地方は学生時代を過ごした自分の第二の故郷であり、それらの地域が真っ黒な水に飲み込まれ、その後発生した火災によって焼き尽くされていく様を、自分の身が切られるような思いで、ただただ見ているしかありませんでした。ラジオから「浜辺に300体ほどの遺体が打ち上られているという情報が・・」という放送が流れ、「そんなの映画の中の話じゃないの?」と耳を疑いました。

 

雪も降っていた。3月だというのに、あの日はものすごい寒い日で、高台に避難した人たちが自分の家や思い出が、いとも簡単に押し流されていくのを黙って見守ることしかできず、その震える身体の上に白い雪が積もっていく。こんなことってあるのかな?この人たちがこんな目に合わなければいけないほど、いったい何をしたというのだろう?・・と、神や仏は何やってんだ!と怒りさえも覚えました。とにかく、まずは神様この雪を止ませてください。冷たい水に濡れて凍える東北の人たちを、少しでも太陽の光で温めてくださいと、祈るしかありませんでした。

 

震災から少し経って、平成天皇ご夫妻、今の上皇様と上皇后さまが二人で被災地を訪問された際、現地に到着したお二人は、まず海に向かって深々と頭を下げました。これは普通に考えれば、海に流された人たちに向けての慰霊と鎮魂の意味だったのでしょう。一方で、日本国の天皇として、人知を超えた力を持つ「自然」という存在に対し、畏敬の念と祈りを示されたのだろうと、自分は直感的に感じました。

 

これほど多くの人命と生活を奪った憎き海に対してさえも、日本の天皇は深く頭を垂れるのです。「これが天皇なんだ」と、不思議な感動を覚えたシーンでもありました。天皇の真の存在意義は「祈り」であると、聞いたことがあります。悲しみや憎悪、妬み、罵詈雑言が渦巻く娑婆の世界で、天皇だけは祈りを止めないのです。あらゆる災難災厄を被り絶望の淵に立たされた時、唯一人間にできることは祈ること、確かにそれだけかもしれないと、震災の惨状を見ながらふと、思ったりもしました。

 

2000年に刊行された村上春樹の小説に「神の子供たちはみな踊る」という短編集があります。

1995117日の早朝に阪神・淡路大震災が起き、神戸の町が大きく被災しました。何かを感じたのか、あの日の朝、目覚ましのアラームも鳴っていないのに、なぜか540にパっと目が覚めたのです。何気なくラジオを付けると、まもなく地震のニュースが流れてきました。神戸出身の村上春樹は、懐かしい故郷の町が崩壊していく様を、どういう気持ちで見ていたのでしょう。その後に描かれた小説です。なので、すべての短編に地震の影が直接的、間接的にまとわりついているストーリーだった気がします。

(私は知りませんでしたが阪神・淡路大震災から30年経った2025年に、この短編集を元にNHKがドラマ化し「地震のあとで」という4回シリーズで放送されたようです)

 

この短編集の中に「かえるくん、東京を救う」という小説がありました。信用金庫か信用組合のサラリーマンとして融資の返済の交渉を担当する一人暮らしの孤独な主人公の男のもとに、ある夜、人の背丈もある大きなカエルが現れて彼に頼みごとをします。地下に棲む巨大なミミズが暴れて東京に大きな地震を起こし、人がたくさん亡くなるから、それを阻止するために自分といっしょにミミズと闘ってほしい、という内容でした。それは主人公の男でなくては出来ないことだと、カエルは言います。結局、男は地下に潜り、カエルといっしょにミミズを倒し、東京を地震から救います。その後、男は誰かの手にによって狙撃され病院に運ばれた夜、満身創痍のカエルが病室にやってきて、男に語りかけます。

 

ざっくりとこんな話ですが、これを読んだのがちょうど東日本大震災の後でした。これはファンタジーと思いつつ、いや、もしかしたら日々、こんなことが自分の知らないどこかで起きているのかもしれない・・という思いも真面目にありました。あんな非現実のような想像を超えた災害が起きるのだから、世界のどかかでお化けミミズが暴れて地震を起こし、巨大なカエルと人間がそれを阻止しようとタッグを組んで、お化けミミズを叩き潰して世界を救っている非現実な出来事だって、あり得るかもしれない・・と。

 

ミミズって、もしかしたらこの世に巣くう人の念とか欲とか、そんなドロドロしたものが具現化したものかもしれませんね。それを倒す人間は、決してマッチョでもなく、正義感溢れる戦士でもなく、ごく普通の、地味だけど、日々自分のやるべきことに一生懸命に取り組んでいる人物だったのです。

 

ついでの話で、深海誠監督の作品「すずめの戸締り」にも、地震を引き起こす巨大ミミズが登場します。おそらく、深海監督は「かえるくん、東京を救う」から着想を得たのだと、私は密かに思っています。

 

2026
01 / 03
16:00

謹賀新年

謹賀新年

今から24年前の午年正月に「人間万事塞翁が馬」と年賀状に書いてきた人がいました。

当時はまだ若く無知で、この故事の意味を深く理解していませんでした。

平たく言えば「幸が禍につながることもあり、逆に禍が幸につながることもある。

だから一喜一憂するな」という意味ですが歳を重ねた今、経験値としてそれが分かるようになってきました。

幸福も続きませんが、不幸も続きません。

新たなフェーズに入った2026年が皆様にとって実り多き年でありますように。

今年もよろしくお願いします。

2026年 元旦

 

有限会社ユーアンドエス

代表取締役 恩田 澄江

 

以上は今年の年賀状の文面です。友人たちから「正月からくどいんだよね~」と言われながらも、気にせず毎年書きたいことを書いて送っています。

それでも「毎年、何が書いてあるか密かに楽しみにしてる」とか「年賀状の文面に癒されます」と言ってくれる奇特な友人もいるわけです。

 

全員が納得するものなどありません。無難に最大公約数にするか、もしくは一部の人間に刺さるかのどちらかです。

そのどちらを選択するかは本人次第です。もう60年近く生きてきたので、今さら媚びたり人の顔色を気にするのもつまらない。

 

外側から与えられたフォーマット通りの人生を送るよりも「人生を内側から生きる」(中沢新一の本の中の言葉)ことを良しとしたいと思っています。

 

与えられることが当たり前の受け身の人生には、常に不平不満がついてまわります。

でも、自ら選択したものについては真摯に受け止め責任を負わねばなりません。

選択した人生をどうアレンジし気分良く過ごせるか、それを楽しむ度量とか深みを身に付けていきたいですね。

 

戦場ヶ原雪景色.jpg

神社の画像は日光二荒山神社。毎年恒例で、正月2日にいろは坂を上って参拝しています。

今年は奥日光に入ったとたん雪が降り始め、あっという間に一面雪景色になりました。

気温は-5℃ですが、日光の山々の神聖で清涼な空気にさらされ、心身が清められます。

 

煮込みハンバーグ.jpg

 

 

カレードリア.jpg

 

これまた恒例の行事ですが、参拝の後には戦場ヶ原の三本松茶屋さんで食事をします。

こちらは明治4年創業という奥日光では最古参のお店だそう。

店内に古い時代の茶屋のモノクロ写真が飾ってありますが、まだ人の匂いのしない原始の気配を色濃く漂わせる戦場ヶ原の一角、

店の由来になった3本の松の木の傍に、素朴な木造の茶屋がポツンと建っている様子は、何とも奥日光の歴史を感じさせる写真です。

一転、現在のお店は標高1,400mの場所であるにも関わらず、「この場所でこのクオリティ?!」と驚くくらい、オリジナルのお料理を提供してくれます。

よくありがちの「うどん、そば、ラーメン」だろうと、あなどってはいけません。

絶品のデミクラスソーズの煮込みハンバーグ、絶品スープカレー、カレー風味のチーズドリア、ハヤシライス、パスタ等々、奥日光の景色を見ながらいただく美味しいお料理に大満足。

さらに標高1,400mという物理的条件を加味すると、値段もかなり良心的な設定だと思います。

 

 当たり餅.jpg

 

今回はお正月企画ということで、お箸袋の内側に当たりマークがあれば限定50個のプレゼントがもらえるとのこと。

なんと!私と母親の箸袋の内側に同時に当たりマーク発見!

クジ運とは無縁の私は思わずスタッフさんに「これ、全員当たりになってない?」と聞いたら、

「当たりが全然出なかったので、心配してたところなんです」と言われました(笑)。

店内からも「すごーい」の歓声。

三本松茶屋さん、年始早々、幸先良いスタートを切らせていただき感謝申し上げます!

 

スー.jpg

 

【おまけ】

我が家の女帝猫・スー様。今年もイカ耳でキリリと美しくあられます。

何事にも妥協せず自分の意志を通すスー様は、他の3匹(全員オス♂)からも一目置かれる存在です。

思えば10年前、まずスー様が我が家に初めて踏み込んできました。

「ここはいける」と判断した後、兄や弟を引き連れてきたスー様。

危険を冒しても、自分の兄弟たちの居場所を確保しようとした健気で愛に溢れたスー様に、皆ひれ伏すしかありません。

 

 

2025
12 / 27
09:00

鶴居村に寄付しました!

鶴居村に寄付しました

いったい日本人の感覚はどうなってしまったのかと、メガソーラーの映像を見るたびに心が痛んでいました。東日本大震災以降の脱原発、地球温暖化防止策としての脱化石燃料の大きな切り札として国を挙げて大々的に進められてきた太陽光発電政策。

 

自然エネルギーは地球環境にやさしいという触れ込みで始まったはずでしたが、十数年を経て気付けば山は削られ森林は切り倒され、のっぺらぼうに整地された土地に無機質なパネルが大量に設置されるという結果となりました。これ、どう考えたって環境にやさしいか?明らかな環境破壊の極みとしか思えません。自然豊かなこの国に生まれて、この歳になってこんな景色見たくなかった。多くの日本人がそう感じているはずです。

 

それでも日本人は従順だから、お上のやることには安易に異は唱えない。でもさすがに2025年は、今まで溜まり溜まってきた太陽光発電に対する違和感や不満が「いい加減にしろ!」と、表に噴き出してきた年でもありました。福島県吾妻連峰中腹に現れたメガソーラー施設も話題になりました。住民曰く「ある日、いきなり見慣れた山が切り開かれ山肌が剥き出しになった」といったようなコメントを多く見ましたが、住民たちは寝耳に水という感じでした。

 

これさ、説明責任とか環境アセスメントとかどうなっているのよ。どうして地域に知らされず唐突に開発が始まるのか。林野庁勤務の友人に聞いたところ、例えばバブル時代、どこかの大資本が山の中にゴルフ場やリゾートホテルやレジャー施設の建設計画を申請し、県が開発許可を出していたとする。ところが建設前に大資本の経営が破綻して計画が頓挫したとする。しかし一度開発許可が下りた土地はたとえ計画が破綻しても、許可が取り下げられることはないそうで、開発許可を維持したままま放置される。それから数年もしくは十数年後、別の大資本がその土地に目を付け、その時代の流行り物をそこに計画する。バブル時代はゴルフ場やスキー場だった。その次に来たのが、国のお墨付きを得て税制優遇や補助金も出る太陽光パネルだ。エコなんてものは単なる建前で、そろばん勘定のビジネスでしかない。耳に心地よい言葉は都合よく利用されやすい側面があります。

 

 

「リゾート法」なるものが制定されたのが1987年。まさしくバブルの真っ只中で、この法律の制定は当時話題になりました。正式には「総合保養地域整備法」というそうです。ウィキでは「リゾート産業の振興と国民経済の均衡的発展を促進するため、多様な余暇活動が楽しめる場を、民間事業者の活用に重点をおいて総合的に整備することに関する法律である」となっています。この法律の制定後、森林の開発許可が下りやすくなったことで全国津々浦々、様々なリゾート施設が計画され、バブル終焉とともに破綻していきました。残されたのは乱開発された森林や施設の残骸です。

 

結局、上物がレジャー施設から太陽光パネルへ変わり、その土地に縁もゆかりも無いどこかの誰かに巨大な利権が流れ込む仕組みは過去の繰り返しです。いや、それでもレジャー施設は便乗効果で地元経済に少なからず貢献したかもしれないが、太陽光パネルは地域へ何を還元するのでしょうか。しかも厄介なのは、自治体との交渉窓口は一応日本企業(ペーパーカンパニーの場合もあるそう)になっていますが、裏には外国籍の資本が虎視眈々口を大きく開けて控えているケースがあることを忘れてはなりません。

 

 2025年はタンチョウ鶴で有名な釧路湿原を蹂躙するかのごとく建設されるメガソーラーも話題になりました。緑の湿原がブルドーザーで掘り起こされ、埋め立てられる様をニュースで見ながら「とうとうここまで来たか」と絶望的な思いでいたところ、9月下旬、たまたまネット上に流れていた登山家の野口健氏の訴えに目に留まりました。それは「釧路湿原国立公園に隣接する鶴居村が景観とタンチョウ鶴の生息地を守ろうと、自治体自ら土地を購入するため寄付を募っている」という内容でした。鶴居村のホームページで確認したところ「ふるさと納税」として寄付を受け付けると説明があり、早速振り込んだ次第です。そして12月の初め、鶴居村が釧路湿原国立公園に隣接する村内の民有地を、日本ナショナル・トラスト協会と共同で購入することを報道するニュースが流れました。

 

 ふるさと納税.jpg

 

これまで巨大な資本と国が結託して遂行する計画の前に、地域は無力でした。しかし今回の件はたとえ小さな自治体でも声を上げ、志を同じくする仲間を集いその意志を形にし、巨大な力に「NO!」を突き付けられることを世に知らしめた出来事だと思います。それは自民党総裁選への出馬記者会見において「これ以上私たちの美しい国土を外国製の太陽光パネルで埋め尽くすことには猛反対だ」ときっぱりと宣言し、メガソーラーの規制強化へと大きく舵を切った現高市政権の影響もあるでしょう。2025年、沈黙していた声がいよいよ表に出て来ました。私たちは何を思い、何を守らなければならないのか。時代は確実に変わっています。

 

2025
12 / 23
17:15

永遠の美女 新橋ぽん太 

永遠の美女 新橋ぽん太 

 

 昨今はAIの進化で画像や動画処理の技術も飛躍的に進化したようです。YouTubeを見ていると、明治や大正時代に生きた人物の古写真を元にAIを使って動画を生成し、まるで本人をビデオカメラメラで撮影したかのようなリアルな映像がたくさん流れています。以前から古い時代のモノクロ人物写真を見るのは好きだったので、新選組の隊士や幕末の志士たちが笑ったり走ったりする様は実に自然体かつリアルで思わず見入ってしまう。AIすばらしい!こういう技術は大歓迎です。

 

 古写真の中に、明治大正期の美女たちを集めた写真集などがあります。だいたいが当時の花街界隈で人気を集めた芸妓さんの写真が多く、彼女たちは今でいう国民的アイドルのような存在でした。アイドルのプロマイドと同じように、彼女たちの姿が印刷された絵葉書が販売されていたようですね。

 

 その中の1人に「新橋ぽん太」という芸妓さんがおりました。彼女は新橋・玉の屋の芸者で、本名は「谷田えつ」といいます。当時の新橋の並み居る美妓たちをおさえ、ナンバーワンの呼び声高かったのが「ぽん太」です。世間から「西の富田屋八千代、東の新橋ぽん太」と謳われ、一世を風靡しました。ちなみに富田屋八千代とは大阪南地の富田屋(とんだや)の芸妓で、同じく美貌と芸と粋で人気を博した名妓です。(かの松下幸之助も八千代に声をかけられ一言も話せず顔を赤らめた、という逸話も残っています)

 

 私がぽん太を知ったのはだいぶ前、幕末から明治の日本の風俗を撮影した写真集を本屋でパラパラめくっていた時です。おそらく10代であろう美しい二人組の娘の写真に釘付けになりました。一人は優しげな下がり眉と、二重瞼の憂いを帯びた大きな目が印象的な現代的美人で、口元にうっすらと笑みを浮かべていました。もう一人はふっくらした頬がまだ少女のような幼さを残しつつ、こちらを見つめる黒目がちで切れ長の大きな目がまるで日本人形のようでした。でも口元は、隣の女性とは対照的にキュっと閉じられていて、その清らかで凛とした表情が彼女の内面の強さを物語っているようでした。

 

 それが、ぽん太でした。ただ、その時はまだ携帯どころかインターネットさえ普及していなかった頃で、ぽん太についてそれ以上調べることもせず、本を閉じてそのまま棚に戻しました。でも、その後も自分のなかに「ぽん太」という名前はずっと残り続けました。どうやらあの写真を一目見て、彼女に魅了されたようです。それからだいぶ後になって、彼女が東京一ともてはやされた名妓で、時の豪商・鹿島清兵衛の愛妾であり、写真道楽が過ぎて養子縁組先の鹿島家から追い出された清兵衛の正式な後妻となり、その後たいへんな苦労をして清兵衛を支えたということを知りました。

 

 東京日本橋に、かつて江戸時代から続く鹿島屋という酒問屋を営む豪商がありました。広大な土地と巨万の富を有し、江戸時代に商人ながら苗字帯刀を許されたという事実からしても、そうとうな財力だったのでしょう。江戸十人衆の一人に数えられ、その仲間には三越の前身である越後屋、大丸、白木屋(東急)などがいたといいます。明治の世を迎えると鹿島屋は七代目夫妻が早世し、残されたわずか13歳の長女娘・乃婦(のぶ)が家業を継ぐごとになりました。当時、鹿島屋は同族であった大阪天満の酒問屋鹿島屋から養子を貰っており、それが当の清兵衛です。

 

 明治20年の初め頃、清兵衛は最愛の長男を突然亡くしました。江戸から明治になり刻々と移り行く時代のなかで、養子の身で老舗の大店を維持することに苦心していた清兵衛にとって、息子の死は大きな痛手となったにちがいありません。そんな傷心のさなか、清兵衛は先代が手に入れ、蔵の中で埃まみれになっていた写真機を見つけます。気分転換でも、という周囲のすすめもあったといいますが、当時まだ特権階級にしか許されていなかった写真という高級な趣味に、清兵衛は次第にとり憑かれたようにのめり込んでいきます。ちょうどこの頃、日本政府の招きで建築家であり写真家である英国人のバートン博士が来日していました。清兵衛は博士から、熱心に写真の理論と技術を学びました。

 

 はじめは東京近郊に写真機を担いで行って、珍しがって集まる見物人を撮影する日々でしたが、次第に清兵衛の技術と情熱は、趣味の領域を逸脱していきます。彼の写真は当時の常識をはるかに超えていました。有名なのが、九代目市川団十郎の等身大の舞台写真。このサイズは当時の技術では世界にも類がないそうです。他にも明治天皇の銀婚式のお祝いとして献上された超巨大な富士山の写真など、鹿島屋の財力をバックに、外国から最新式の大型の機材を次々取り寄せ撮影する作品は、とにかくスケールの大きなものばかりでした。おまけに両国川開きの際に行った我が国初のCM入り仕掛け花火の演出など、技術だけでなく清兵衛は監督兼プロデューサー役もこなし、彼の多才多芸ぶりはあらゆる方面で発揮されたのです。

 

 清兵衛は家業を妻と使用人に任せきりにし、今の銀座六丁目界隈に豪壮にして最先端を行く写真館「玄鹿館」をオープンさせました。坪数159坪、内部は回り舞台になっていて、夜でも撮影ができるように2500個もの電燈が備え付けてあったといいます。芝居小屋から大道具、小道具、衣装係を雇い外国人のための通訳まで置いたそうで、写真館というよりちょっとした小劇場に近く、そこに芸者や役者が毎日押しかけ盛大に宴会をやっていたといいます。そのため清兵衛は世間から「写真大尽」「今紀文」と呼ばれていました。(今紀文とは江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門になぞらえたあだ名)

 

 清兵衛がぽん太と出会ったのも、写真が縁でした。おそらくぽん太が1415歳の頃でしょうか。キリンビールが公募した「美人写真」のモデルとして彼女を紹介されたのが、二人のなれ初めと言われています。以来、清兵衛の行く所、必ずぽん太の姿がありました。清兵衛がぽん太に「お前は笑わないほうがよい」と言い含めたという話が残っています。だから彼女の写真には、笑った顔が無いのだと言われています。ぽん太が大輪の花としてまさに咲かんとしていた17歳の時、清兵衛は彼女を落籍しました。

 

 歌人・斉藤茂吉が随筆『三筋町界隈』のなかで、その頃のぽん太の思い出を書いています。

 

私は小遣銭が溜まるとここに来てその英雄の写真を買いあつめた。

そういう英雄豪傑の写真にまじって、ぽんたの写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃くうっているのもあつた。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折りにふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。ぽんたはそのころ天下の名妓として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということでしきりに噂にのぼった頃の話である

 

 精神科医でもあった茂吉は義父が経営する青山脳病院の慰安会で、すでに人妻となり歳を重ねたぽん太が舞を披露したときのことを思い出し、歌を残しました。

 

かなしかる 初代ぽん太も 古妻の 舞ふ行く春の よるのともしび」(大正3年)

 

 茂吉はぽん太が亡くなってだいぶ経った昭和11年の秋に、彼女が眠る多磨墓地に墓参りにも訪れています。茂吉も私と同じように、東京一と謳われた美女ぽん太の面影に生涯魅了され続けた一人なのかもしれません。その人の内面を語るようなキュっと結ばれた口元と、その嘘のない切れ長の涼やかな目元に惚れたのでしょう。そして、その後の彼女の生き様にも。

 

 清兵衛が撮った写真が「美人絵ハガキ」となり全国に出回ったことで日本中の老若男女の憧れの人となったぽん太の人生は、ある時点からくっきりと色合いが違ってきます。度を過ぎた清兵衛の写真道楽に目をつぶってきた鹿島屋も、ぽん太を落籍するとさすがに黙っていませんでした。清兵衛はとうとう日本橋鹿島屋一族から養子縁組の解消を申し渡されます。清兵衛はそれを受け、手切れ金25万円を受け取り妻の乃婦と離婚し鹿島屋を出ました。(この夫婦には4人の子供がいたといいます)

 

 世間が驚いたのは、天下の鹿島屋の旦那の座を追われた清兵衛とぽん太が正式に結婚し、後妻として納まったことでした。金の切れ目は縁の切れ目だと、さんざん貢がせておきながら男が落ちぶれるとアッサリ袖にする芸者は多かったことでしょう。しかもぽん太ほどの上等の芸者なら、お座敷に戻ることも他に勢いのある旦那を見つけることも十分できたはずです。でも、彼女は清兵衛と別れませんでした。以前、まだ結婚前の二人を偶然見かけた文豪・森鴎外が「病人と看護婦という印象」と書いています。これは作家特有の慧眼なのかもしれません。

 

 鹿島屋の財力を失うと、清兵衛が手塩にかけた玄鹿館もまもなく破綻した。その後、夫婦は大阪へ引っ越し写真館を始めますがうまくいかず、再び東京へ戻り本郷で春木館という写真館を開業しました。しかしよくないことは続くもので、撮影のフラッシュに使うマグネシウムの爆発事故で清兵衛は右手親指を失ってしまいます。そのせいで、写真業を続けることをあきらめざるをえませんでした。それでも、もう一つの趣味であった能楽の笛が、彼のささやかな唯一の収入源となりました。(この笛も玄人の腕前だったそうです)

 

 写真からの収入がなくなると、鹿島屋からの手切れ金とぽん太が芸者時代に覚えた三味線や踊りのけいこ代が一家の生活を支えることになります。当時のサラリーマンの月給百五十円に対し、ぽん太はけいこ代で五百円近く稼いでいたというのだから、まさに自分のキャリアで身を立て一家を支える「できる女」でした。さしずめ今なら、芸能界を引退したかつてのトップアイドルから歌やダンスのレッスンを受けるわけですから、けいこ代も相場よりかなり高く取れたことでしょう。

 

 斉藤茂吉が後年、青山脳病院の慰安会で舞うぽん太を見て歌に詠んだのも、蝶よ花よと皆の羨望を一身に浴びていた10代の可憐なぽん太でなく、清兵衛と結婚し「鹿島えつ」となり、生活のために寄席や地方巡業までこなし「ホラ、あれがあのぽん太だよ」と、口やかましい世間から好奇と憐憫の目で見られていた頃のぽん太なのです。それでも夫婦は13人の子供を養い、世の人々は「貞女ぽん太」と彼女を称えました。

 

 もうひとつ、忘れてならないのは清兵衛の元妻・乃婦です。老舗の跡取り娘らしく、豪気で気風の良い人柄だったようで、あれほど実家の財産を食い潰し、揚句は贔屓の芸者と結婚し家を出た元夫に対し、彼女は毎月四百円もの大金を仕送り続けたといいます。心ない人々は乃婦の行為をせせら笑いました。しかし、どれだけ周りから嘲笑されようとも、34歳の幼い頃から同じ屋根の下で共に過ごし夫婦となり、激動の時代のなか養子の身で老舗の看板を背負った夫の苦労も十分見てきた乃婦は、死ぬまで清兵衛一家に送金を続けたといいます。

 

 どれだけ落ちぶれようと、女たちは清兵衛を支え見捨てはしませんでした。それは持って生まれた彼の徳なのでしょうか。それとも彼女たちだけが知っている、ほとばしる情熱と妙に冷めた気分が紙一重となったような清兵衛の抗いがたい魅力なのでしょうか。あるいは陽気の底に潜む陰りと憂欝を抱えた人間に対する、本能的な母性なのか。人の気持ちは他人にはわかりません。外野があれこれ詮索しても、しょせん本人同士にしかわからないことです。

 

清兵衛は大正13年、関東大震災後の吹きさらしの能舞台へ体調不良のなか無理して出演し、それがもとで帰らぬ人となりました。五十八歳でした。翌年、清兵衛の後を追うように、ぽん太も45歳で他界しています。

 

2025
12 / 22
12:15

国家を持たない人々

国家を持たない人々

11月~12月は物流の末端を担う弊社の繁忙期でコラムを書く時間と体力を失うため、むか~し勝手に書き留めたコラムを多少手直し掲載させていただきます。若さゆえの純粋さや反骨心も垣間見られ、なかなか心の琴線に触れると自画自賛しております()

 

 (通信作文教室2010年10月号の編集後記より抜粋)

 

 先日東京に用事があって出かけたとき帰りに新宿駅前のジュンク堂にふらりと立ち寄ったら、七階のエレベータを降りた真ん前に、たまたま「星野道夫」の特設コーナーが設けてありました。何気なく本を手にとって、結果として目が釘付けになりました。星野道夫をご存知でしょうか。もう故人ですが、彼がカムチャッカ半島でヒグマに襲われ亡くなったことを伝えるニュースを聞いたことをよく覚えています。それは19968月のことで、そのニュースではじめて「星野道夫」という動物写真家の存在を知りました。「そんな写真家がいたんだ・・」という程度に。

 

 動物写真家がテントで就寝中にヒグマに襲われるという、その死がかなりショッキングな内容だったにも関わらず、その時は彼の作品を努めて見てみようとはしませんでした。だから星野道夫の作品をじっくり見たのは、このジュンク堂での特設会場が最初になります。星野氏はアラスカを拠点とし、アラスカから北極圏にまたがる自然や野生動物、そして極北の大地に一万数千年前から住みつき狩猟生活を営んできたインディアンやエスキモーの人々や文化を撮り続けた写真家でした。大変筆まめな人で写真と共に多くの美しい文章を書き残しています。

 

 彼の撮ったカリブーやムースやグリズリー熊の写真を見ながらそこに添えられた言葉を立ち読みするうちに、私の周囲から文明が創り出す人工的な雑音は消えゆき、頭の中にアラスカの豊かで果てしない大地がいっぱいに広がり、そこに暮らす人々が私に語りかけてきました。星野氏が構えるレンズの向こうの動物たちの表情は限りなく優しく、誇り高いものでした。翼を広げた真っ白なシロフクロウは神様の化身みたいに威厳に満ち、巨大なグリズリー熊が地面に突っ伏して眠る顔は、まるで夢見るような祈るような表情でした。

 

 星野氏の写真集やエッセイが並べられた隣に、関連本としてインディアンの本が置かれていました。19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカの西部開拓時代、インディアンたちにとっては部族の存亡をかけた苦難の時代でした。その時代を生きた当時の酋長やシャーマンたちの毅然と彼方を見据える深い眼差しと、雄々しい姿を伝える写真と言葉に心打たれ、星野道夫の本と合わせてそのアンソロジー(大好きな中沢新一の訳だったこともある)を思わず買い求めたのです。

 

 まだ地球が最後の氷河期にあった約14千年前、ユーラシア大陸からマンモスを追って凍ったベーリング海峡を徒歩で渡りアラスカからアメリカ大陸へと広がっていったハンターたちがインディアンの祖先と言われています。彼らは私たちと同じモンゴロイドです。白人のコーカソイドがこの土地に入り込むのはそのずっと後、社会の授業で習ったとおり15世紀の大航海時代を待たなければなりません。インディアンたちの言葉は心の深い部分に響き、長い余韻を残します。時にズキンと胸に突き刺さる矢のように、時にくすんだ世界を洗い清める雨のように。

 

 よく言われることですが、彼らは国家を持たない人々でした。部族はありました。ナヴァホとかアパッチとかミクマクとかスー族という大小の部族がかつて北アメリカに四百ほど点在し、それぞれの習慣と戒律を守り生活していたといいます。私の世代なら、ケビン・コスナー主演の映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」を観た人は多いのではないでしょうか。あれには、たしかスー族が出て来た気がします。

 

 国家や君主や一神教のように、特定の何かを信仰する習慣を持たないインディアンは何より自由でした。彼らは部族ごとにテントを張りながら広大な土地を季節とともに移動し、自然に感謝し祈りを捧げ、動物や魚を狩り木の実を採って生活していました。国家や政府やもちろん貨幣を持たないわけだから、税金を納めるという習慣もなければ土地を所有するという概念もありません。白人によってインディアン社会に貨幣経済が導入される以前は、貧富の差による階級というのもなかったことでしょう。彼らの上に国家という目に見えない巨大なシステムがない代わりに、彼らはいつでも国家の向こう側の果てしない世界と直接つながり、その恩恵や脅威を直に肌で感じていたことでしょう。

 

 彼らの精神は常に孤高であり、報酬を払って他人に守ってもらうとか食べさせてもらうという考えは微塵もなかったようです。母なる大地は所有する対象ではなく、昔からここで暮らしてきたインディアンが望み、一定のルールと感謝する心を忘れなければ、家族と部族が飢えることがない程度にはちゃんと食べ物を与えてくれる存在でした。そんな人々のなかへ、自称文明人と称する者たちが貨幣や所有や権利という習慣と概念を持ち込んで、それまでなんの問題もなくやってきたインディアンの生活を「野蛮だ」と否定し、自分たちの習慣を押し付けたわけですね。

 

 印象深いのは、インディアンたちの他者や自分たちを取り巻く世界との関わり方です。日本国憲法には『国民主権』が明記されています。法治国家ではすべての国民は法の下に平等で、国民の権利は法の下に保証されます。自分たちの権利や生活を守ってもらうために、国民は国家に税金を払い、国家と契約するわけですね。だから「こっちは国にお金を払ったんだから、その分ちゃんと国民の生活を守って老後も保証してくれないと困る」という理屈になるのも当然です。たしかに筋は通っているけれど、インディアンの厳かな言葉と比べてみると、どうにも幼稚に聞こえるのはなぜでしょう。

 

 たしかにインディアンが自由に生きていた時代のように、私たちは山で動物を狩り、川で魚を釣って自給自足の生活をすればいいというわけにはいきません。絶対に・・。自分自身も生まれてこのかた資本主義と貨幣経済にどっぷりつかり、国家と法というセキュリティーシステムに身を委ねてきました。でも、どこかで違和感を感じていました。それゆえ、自分たちと祖を同じくするインディアンの言葉に、どうしようもなく惹かれてしまうのかもしれません。彼らは私が生まれる百数十年ほど前までは、北アメリカの緑豊かなプレーリー地帯で馬を駆っていました。勇気と強さの印である鷲の羽根を頭に刺して。

 

 その人々は、今はもういません。でも、人生との向き合い方、物ごととの関わり方は彼らが残した言葉から学べるはずです。以下、『それでもあなたの道を行け/ジョセフ・ブルチャック=編』よりインディアンの言葉を引用します。

 

親愛なる兄弟、私はあなたのことが、魂の底からあわれな人に思える。私の忠告を受け入れて、ヒューロン族のもとから去ってくれ。なぜなら、私はあなたの人生の条件と私のそれとのあいだに、天と地ほどの違いのあることを見るからだ。私は自分自身や自分の生き方の主人としてふるまうことができる。自分の自由は完全に自分のものだし、自分のしたいことをする。私は部族の先頭を行く者であるし、その最後を固める者でもある。私は誰のことをも恐れてはいない。なぜなら、私はただグレート・スピリットによってだけ生きているからだ。ところが、あなたはどうだ。あなたは体も魂も、あなたより偉いキャプテンにゆだねている。あなたの総督は、あなたの処分を決めることができるし、あなたは、自分がしたいと思うことを実行するいかなる自由ももっていない。泥棒を恐れ、偽証を恐れ、暗殺を恐れている。あなたは自分より高い地位にある人々のもつ力に頼って生きている。どうだ、私の言っていることは、間違っているか

 

17世紀、ニューファンドランドプラセンシャにおいて

フランス植民地総督代理、デ・ラオンタン男爵に向かって語られた言葉

コンディアロンク(ヒューロン族)1690年頃

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