コラム
作文からアフリカ哲学へ
「アフリカ哲学」、そんなジャンルがあったとは自分も知りませんでした。しかも、どうして「作文から」なのか、このタイトルに至るまでには長い物語があります。
遡ること今から20年ほど前、私が独立起業する直前くらいの時期で、当時はまだ通信教材を制作する会社に勤めていました(今はもう存在していません)。その会社は小・中学生向けの通信による作文教室も展開しており、私も会員の子供たちが書く作文の添削に関わりました。
まだZoomを使って画面越しにミーティングだの授業などという文化はなかったので、今月のお題とそれに対するアプローチや書き方のポイント等を紙に印刷し、作文用紙と返信用封筒と一式合わせて会員さんへ郵送するという実に昭和的な、素朴な手法を取っていました。作文の師匠的な先生がおり、その先生のモットーが「うまい文より心に響く文」でした。起承転結などの文章のルールよりも、どれだけ読む人の心に深い印象を刻むかが大切なのです。読み手の心を動かすにはルールを学ぶよりも思考を磨き読解力を鍛え、自在な視座を持てと言われました。これらが身に付けば、確実に文章に奥行きと幅が生まれます。
読解力とはいかに文章の行間を読み解くかということです。その言葉の裏側に脈打つ書き手の想い、言葉にならない衝動、知られざる歴史などなど、言葉や文章はほんの氷山の一角であり、その裏側の表に出てこない本質の部分を読解せよというのが師匠の口癖でした。それは逆も然りで、表に出てこない膨大な情報を一文に凝縮して表現するわけです。ですから「俳句をよく学べ」とも言われました。確かに、俳句はその短い言葉の向こうに膨大な世界の広がりを感じさせる表現方法です。
作文の会員さんに、関西在住のK君という小学生の男の子がいました。彼の書く作文は大変ユニークで、9歳にしてモノの見方、捉え方、視点や視座といったもののレベルが明らかに際立っていました。文章を書かせると、たとえ子供でも生まれ持った「才能」とか「知力」といったものが滲み出ます。だから私も本気になって、彼の書く作品と向き合いました。
それが多少とも功を奏したのか、彼の中で何か変化が起きたようで御母上がことのほか喜び、私宛にお手紙を寄こすようになりました。御母上は偶然にも私と同い年で、地元では女性弁護士第一号となった優秀な方です。K君の中学受験が無事に済むと、わざわざ二人で宇都宮に挨拶に来てくれました。日光湯元温泉に宿泊の予約を取っていたので、私が車で送り届けました。車中のK君は涼しげな顔で、ずっと英語の勉強をしていました。すでに受験は済んで合格しているのに、彼にとって勉強とは呼吸することと変わらないようでした。「根本的に人間の出来方がちがう」と、思わざるを得ませんでした。
余談になりますが、湯元温泉からの帰途、戦場ヶ原で思わず息を飲む光景に出くわしたのです。私は車を止め、外に出ました。「男体山が、燃えてる?」実際は男体山が夕陽に照らされ、赤く染まっていただけです。でも、その染まり方が尋常ではない。本当に山火事のように、真っ赤に山は燃えていました。それは私だけが感じたわけではなく、他に数台の車が路肩に停車し、運転手たちが同じように外に出て、燃える男体山を眺めていました。それからニ週間後に、東日本大震災が起きました。後から思えば、あれは自然界からの警告だったのかもしれません。「男体山が燃える時、何かが起きる」それは教訓のように私の中に刻まれた出来事でした。
その後、K君は哲学を志し早稲田大学に入学し、成績優秀者として表彰され飛び級で3年間で大学を卒業しました。社会人となったK君の哲学と語学への情熱は衰えることを知らず、再び某有名私大の大学院で哲学の修士課程を専攻し、現在修士論文に取り組んでいます。同時に、御母上が月に一度Zoomを利用し「読書感想会」なるものを企画してくれました。月に一度、今度はK君が先生となって彼の研究テーマである哲学や、彼がすすめる書籍を私たちにレクチャーし、共に意見を述べ合うというイベントです。そこで今取り組んでいる課題が、K君と交流を持つアフリカ人留学生がフランス語で書いた「アフリカ哲学」に関する論文です。K君はフランス語にも造詣が深いため、フランス語の論文を日本語に訳し(ややこしい)、私たちに優しくレクチャーしてくれます。
哲学を一部の限られた人間のための学問にせず、もっとオープンに日常生活にどう落とし込んでいくかが彼のテーマであり、挑戦でもあるようです。作文を通して数百キロ離れた地に住むK君の人生に寄り添い、時を経て今また新たなステージで、思慮深い大人になったK君と再び学び合う関係を築いているという、この事は私の人生にとっても喜びであり誇りでもあります。
街の化粧品屋さん
気が付けば、周りはドラックストアだらけになりました。通りを挟み異なるドラックストアがはす向かいで営業していたり、同じ並びで隣接していたり、住宅街の一角のさほど広くない土地に建設されるなど、まるでコンビニ状態です。
でもコンビニよりも安く品ぞろえも豊富で、ドラックストアと言いつつも冷凍食品や加工食品にお酒類、さらにちょっとした野菜や肉まで置いてあり、本来の薬品と化粧品にスーパーマーケットの機能も備えフル装備に進化しています。
そこに「本日化粧品〇倍ポイントデー」などと銘打ちポイントが大幅に加算されるわけですから、目端の利く主婦はチラシをじっくり見比べて、出来る限り効率よく店を回り買い物しながら賢くポイントもためるわけです。
かつて商店街には必ずといっていいほど、地域に根付いた化粧品屋さんがありました。
私が初めて量販店では扱っていない化粧品を買ったのも、家族で経営する街の化粧品屋さんでした。自分の世代は高校生ではまだお化粧をしなかったので、3大メーカーの化粧水と乳液と下地とファンデーション、アイシャドウ一式をそろえたのは、大学に入学した年です。
40年近く前になりますが、今のようにドラックストアが雨後の筍のごとく乱立しておらず(せいぜい地元発祥のK薬品さんくらい)、まだ100円ショップも存在せず、もちろんネット環境など整っていないので通販サイトという概念もなく、メーカーのブランド化粧品は化粧品専門店で買うという文化が色濃く残っていた時代でした。
当時、国内化粧品3大メーカーと言われた資生堂・カネボウ(現在は花王の完全子会社)・コーセーの化粧品を使うことは自分にとって憧れであり、大人の仲間入りをする登竜門でもありました。値段も高いので子供では買えません。大学生になりアルバイトをするようになって、初めて手が届くようになりました。
宇都宮に帰省した際、化粧品専門店のドアを少し緊張しながらくぐり「初めてお化粧するんですけれども、何か選んでほしいんです。でもそんなに予算がないので…」と、たぶん、そんなふうにお店の美容部員さんに伝えたのでしょう。私の日焼けした肌を見た美容部員さんは火照りを抑えひきしめ効果があり、かつメーカーのラインナップの中でも値段が手頃な若者向けのブランドを選んでくれたことをおぼろげに記憶しています。
以来、化粧品はこちらのお店で購入するようになりました。
確かに今の時代、ドラックストアでもメーカーの一部化粧品をお値引き価格で購入でき、さらにはポイントもゲットできます。商品の情報はネットで仕入れ、店に行ったら棚から自由に取り、特に必要なければ店員さんと会話することなくセルフレジで会計できます。量販店で扱わないブランド化粧品においては、メーカーの公式HPや通販サイトで購入できます。多忙な現代人にとって、その方がわずらわしさもなく、楽だという考えも十分理解できます。
それでも、私は街の化粧品屋さんにいそいそと出向き、カウンターに座り「化粧水が切れたんだけど、今は何があるのかな?」と聞きます。すると美容部員さんが「今度ですね、すごくいいのが出たんですよ」と、おもむろに商品を後ろの棚から取り出し「お時間あればちょっと試してみましょうか?」と、お約束のようにコットンにたっぷりと液を含ませて顔や手に付けてくれます。その際「この成分はですね、業界としては初めて抽出に成功し‥‥云々」と、商品のレビューが始まります。
私はこの時間が大好きなのです。
「へえ~、そんなにすごい成分なんだ。たしかにモノが良いのはつけてみてすぐ分かる。でも、ちょっと私には高価すぎる。予算オーバーだな。次は買えるようがんばるよ」などと応じます。アイシャドウやリップなど新色のメイク商品が出れば、必ずつけてもらいます。そこでまた美容部員さんとあれこれ試しながら物議をかもし自分に似合う色を見つけたり、メイクの技術を伝授してもらったりします。この時間もまた楽しい。
美容部員さんたちは自分たちのメーカーの商品に愛と誇りを持っています。その情熱に満ちた「語り」を聞くことは私の精神を活性してくれるし、何歳になっても「美しくなるかもしれない」という希望は純粋に心ときめくものです。
以上はメーカーから店舗に派遣されている美容部員さんとのコミュニケーション。それとは別に、お店のオーナー夫妻との会話もまた奥深い。これは経営的な話となります。
現在のように化粧品がどこでも入手可能な時代、専門店は生き残りをかけて今後どう展開していったらよいかを、彼らは店で接客に追われながらも常に考えています。
そう簡単に「これだ!」という答えは見つかりません。ただし、ひとつ言えることは間違いなくこの空間には人の温もりと癒しがあり、それらを求める人たちが必ず存在するということです。
一軒また一軒と、街の化粧品屋さんが姿を消しつつあるなかで、そこで踏ん張ることによって希少価値が生まれ、何か光が見えてくるのではないしょうか。

みどりや化粧品店さん明治43年に宇都宮で創業した老舗化粧品専門店。私の高校の後輩でもある現社長は4代目で、栃木県化粧品小売協同組合の理事長も務めます。
巡り巡って養鶏場
世の中の不思議なご縁を感じた話です。
昨年の話になりますが、我が愚弟が務めていた会社を辞め「この年齢で再就職先など滅多にない」と家族がヤキモキしていた頃、懇意にしている社長さんから「誰か鶏のエサやりしてくれる人を探してるんだけど」という話がありました。
聞けば、その社長さんの知り合いが経営する平飼いの養鶏場(ゲージに入れず鶏舎の中で鶏を放し飼いにする飼い方)で人が足りず、養鶏場の社長である女性もすでに70代後半になり、毎朝10㎏を超える餌袋を抱えて鶏舎を行き来する作業がさすがにしんどくなっているという話でした。
そりゃそうですよね。たとえ若くても、朝も早ければ肉体的にも大変な作業だし、ニオイのきつい鶏舎で作業をしてくれる人を見つけるのは容易なことではないでしょう。
「今のご時世ね、そんな仕事やってくれる人材なぞ簡単には見つからないですよ」と冷たく言い放ち、ふと思い出して「いや、ちょっと待って。うちの弟が会社を辞めて就職先探しているから、一応聞いてみます」と言葉を撤回しました。
その後、よくよく養鶏場の詳細を聞いてみると「あれ?そこって、もしや…」と心当たりが浮かんだのです。その養鶏場はもしかしてどころか、父親の親友だった人の弟夫婦が始めた養鶏場でした。もう20年以上前にご主人が急逝し、それから奥さんが経営を引き継いだことも聞いていました。私自身は小さい頃に会っただけで奥さんの顔は覚えていませんが、まちがいなくかつて家族ぐるみで交流した人物です。まさか、こういう形で縁が巡って来るとは。
早速、事情を弟に話してみると「やってみる」という答え。
意外なことに養鶏場に行くようになってから、弟は予想以上に真面目に一生懸命に仕事に励みました。毎朝6時に家を出て、社長をよくサポートし、パートさんたちとコミュニケーションを取り(パートさんの多くは社長と同年代の80歳前後…汗)、どうしたら鶏たちが卵をたくさん産んでくれるか、ベテランさんたちの指導を受けながら自らも情報を取り、彼なりに課題を見つけそれを解決するために、少しずつですが改革を実行していました。
あれから今年の秋で1年が経ちますが、弟が入ってから養鶏場は変わったようです。弟が実行したささやかな改革が功を奏したのか、鶏たちが穏やかになり収卵率がアップしたとか。穏やかになる=ストレスフリーなわけで、人間も同様ストレスが消えれば本来備わった身体の機能が活性化します。
「こんな才能があったのね~」と私は感心しきりでした。
民族学者の折口信夫が提唱した「マレビト」の話があります。かつて、共同体の外側からやって来る異界のモノたちは膠着した共同体に新しい情報や知識を与え、共同体を刺激し活性化させる存在だとされました。それらは歓迎されるものであり、そのモノを折口は「マレビト」と呼びました。
弟が養鶏場にとっての「マレビト」だったら幸いです。そして何よりも、どうか今度の仕事が長続きしますように!


産みたてホヤホヤの平飼い卵。放し飼いなので卵の質の良さは太鼓判!これしか食べないという一定のニーズがあります。人手がどうしても足りない時、私もお手伝いに入ります。第一次産業はどこも人手不足。ゲージ飼いなら手間が減り管理もしやすく人材も少なくて済みますが、平飼いは人手が不可欠。ここが大きな課題です。

新しい鶏を受け入れる前、鶏舎を掃除し籾殻をすべて新しいものに入れ替えます。
AI時代に大切なこと
「AIが人間の仕事を奪う」と言われる昨今、たまたまAIを生業とする経営者の方と知り合う機会を得ました。ちょうど良い機会と、試しにAIに作文を書いてもらうことに。そのために基本的な情報を入力しどんな物語に仕上げるかAIに指示を出すわけですが、学生時代を思い出し「ワンダーフォーゲル部の夏合宿中に起きたハプニングがきっかけで、憧れの先輩と付き合うことになった」という筋書きを依頼してみました。登場人物は自分と意中の先輩、そして2人の友人です。
果たして、AIがこれらシンプルな情報からどれほどの物語を展開してくれるのか、興味深々でした。条件を入力すると、間髪を入れずスラスラと画面に言葉が並び始めます。
「・・・・・。」
正直、絶句しました。話には聞いていましたが、AIはたったあれだけの情報からまるで「行間」を読解したかのごとく、大雑把なあらすじは見事に脚色され、いっぱしのショートストーリーが完成しました。しかも、文章は実に自然な言葉で描かれ全体の構成も違和感なく、これが完成するまでに1分とかかっていません。
50代後半になり多くの経験が上書きされた自分の頭では、悲しいかな、すでに当時の瑞々しい情感の断片しか思い出せなくなっています。思い出せないということは、言葉として表現できないということです。ところがAIは、20代の自分が感じていたであろう「ときめき」や「高揚感」を、膨大なデータから最適な言葉を選び出し、あたかも経験したかのごとくもっともらしく表現しました。もっと細かく具体的な指示を出せば、物語はさらに複雑化していきます。
「こりゃ、まいった」と思いました。人間はAIに言葉を委ねるしかないのでしょうか。
いやいや、冷静に考えればAIは確率です。AIが示した言葉や物語に「そうそう、あの頃はきっとこんなことを考えていた。AIはよく分かっている」と共感しますが、AIは私自身の行動を見ていたわけでもないし、私はAIに自分の感情を吐露したわけでもありません。AIはその前後の言葉や文脈から「まあ、この条件を前提に様々な人たちから集めた行動や感情のパターンを分析すると、君の言いたいことはこれでしょう」と、最も確率的に高いと判断した言葉やシナリオをAIが提示してくるのでしょう。
それに、AIの描く文章はたしかに外見は完璧だけど、完璧すぎてどこか空々しさを感じるのです。見た目は美しいけれど魂が無い・・・というか。
今後、AIと共存するためにも人間だけが持つ「らしさ」をより大切にしたい。しかし、この分野の進化のスピードは半端ない。やがては「言霊」を宿した言葉を操るAIが現れるのでしょうか?
高市早苗内閣総理大臣と共に
真面目に感動しました。昭和生まれの世代としては、この日本で女性の総理大臣がアメリカよりも早く誕生した事実に「本当に時代が変わったんだ」と、心底思わざるを得ません。
白状すれば、私自身もかつては「女性に政治は無理だ」と考えていた一人です。女性はどうしても視野が狭くなり、大局的なモノの見方が出来ないと考えていましたから。目の前の案件に右往左往し、俯瞰的な眼差しで国家の行く末を論じることなど不可能だと思っていました。でも、昭和から平成、令和へと時代が移るなか、日本の女性も変わってきました。
政治の世界では1980年代後半、「マドンナ旋風」なるものが吹き荒れ、故・土井たか子委員長率いる日本社会党(現社民党)が大幅に議席を伸ばし、与党である自民党に迫る大躍進を遂げたことを覚えている人は多いと思います。その時、日本社会党から立候補した多くの女性議員が当選しました。なぜあの時社会党が支持を伸ばしたのかは政治評論家の先生に解説いただくとして、社会党の躍進を受け当時の土井委員長が口にした「山が動いた」という言葉が、自分には強く印象に残っています。それは明治の歌人・与謝野晶子の言葉であることを後から知りました。
明治時代、欧米由来の自由な思想に触れ、それまで男性の陰に隠れ夫唱婦随を美徳としていた日本女性の意識にも変化が生じました。我が国にも女性の解放や権利取得を訴える今でいうフェミニストが現れ、その先駆者的人物が社会や歴史の授業でも習う「平塚らいてう」です。らいてうは女性の自立を謳う「青鞜」という雑誌を創刊し、そこに「原始女性は太陽であった」という有名な言葉を残しました。この創刊号に与謝野晶子が「そぞろごと」と題した9ページにわたる詩を寄せ、その冒頭部分に「山が動く‥」の言葉があります。
山の動く日来る
かく云へども人われを信ぜじ
山はしばらく眠りしのみ
その昔において
山は皆火に燃えて動きしものを
されど、そは信ぜずともよし
人よ、ああ、ただこれを信ぜよ
すべて眠りし女(おなご)
今ぞ目覚めて動くなる
何だかんだ言っても、女性は優しいんです。そして、コミュケーションが得意です。戦争なんて大嫌いです。世界の国々のトップが女性ならば、もっと話し合いで解決することが多くなるのではないでしょうか。でも、大切なものが傷つけられるとなるや、物凄い強さと行動力を発揮するのも女性です。まさに「山は皆火に燃えて動きしものを・・」です。山の神様は女性ですから。
ただ彼女たち全員が時代の先端をスマートに駆け抜けたわけではありません。晶子は歌人で夫の与謝野鉄幹との間に12人の子供を産み、子育てをしながらギリギリの生活のなか稼ぎの無い夫と家庭を自身の文筆活動で支え続けたといいます。らいてうの跡を継いで青鞜の編集に携わり、活発な言論活動を繰り広げていた伊藤野枝は母親に「私は畳の上では死ねんとよ」と言い、その通り関東大震災の混乱時、事実上のパートナーであったアナーキスト・大杉栄と共に憲兵隊に捕えられ、殴殺され古井戸に投げ捨てられるという悲劇に見舞われました。青鞜創刊号の表紙を描いた長沼智恵子(智恵子抄の作者で彫刻家・高村光太郎の妻)は、時代に変遷と共に没落した実家を憂い、統合失調症になってしまいます。そういった先人たちの歴史の上に今があります。
晶子の「そぞろごと」は次の言葉へと続いています。
一人称にてのみ物書かばや
われは女ぞ
一人称にてのみ物書かばや
われは われは
これは「自分の責任で、自らの言葉で表現する。それが女である」という意味だとか。
女性初の総理大臣に期待するなどと全て責任を押し付けているうちは、状況は何も変わりません。先輩たちの魂が叫んでいるように、世界を創るのは自分自身なのです。高市早苗総理に期待するとともに、私たちも自らの足で進んでまいりましょうや。
